8 事実を知ってほしい!知って、考えてほしい!

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菜食を強制するつもりはありません。事実を知ってもらいたいと思っています。知って、その上で、何を食べるのかを、主体的に選択してほしいと思うのです。

私はベジタリズムを環境保護の立場からも考えています。今世界では焼畑農業による森林の減少が問題になっています。では肉食を減らすことで飼料となる穀物を作る土地に人間が直接食べる作物を植えることができます。また肉牛が飲む水の量を減らして人間に回すこともできます。肉が好きな人はどうぞ食べて下さい。ただその量を10%減らしてみませんか?
いつも大盛で食べている牛丼を並盛にしてみませんか?

それでも「大きなお世話だ、私の勝手でしょ」と言うなら仕方ありません。好きなだけ食べてくださいと言うしかありません。別に肉食は犯罪ではないから。

ただ、肉食を減らすことの利点を「理解」はできましたか?…これだけ、聞きたいです。
「実践」はしなくてもいいです。
「理解」はできましたか?
「理解」できないとしたらどういう点ですか?

「肉を食べることや革製品を作ることが肉食を減らすメリットより大切だ」と思う方はどうぞ肉を食べ、革製品を使って下さい。それを私は責めません。

ベジタリズムの利点を理解し、よく考えて出した結論ならば。

7 「畜産に関わっている人の職がなくなるじゃないか」

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●「世界にどれだけの数の、畜産・精製・輸入等を生業にしてる人が居るか。畜産をやめようなんて言ったら、畜産に関わっている人の職がなくなるじゃないか。その膨大な数が予想される人が就ける職が有るのか?」という疑問があります。

例えばビニールを作る会社があります。ビニールの原料は石油です。石油製品は燃やすと有害なガスが出るということで、買い物の時はビニール袋をもらわないようにしよう、とか使用量を減らすためのいろいろな運動が広がっています。それについてあなたは「ビニールの会社の人が困るからビニールを使わなければ」と思いますか?
どんな産業にも寿命はあり、儲からなくなったら別の手段を考えるしかないのではないでしょうか?

何か動きや変化があれば、損する人と得する人が生じるのは当然ではないでしょうか?
ビニール会社の例をもう一度出すならば、ビニール袋をもらう人が減れば確かにビニール会社は損をします。しかし石油の消費量が減ることで大気が浄化され、多くの人が得をします。どちらを選択しますか?という問題です。肉食をする人が減ることで畜産業者は損をするでしょう。しかし焼畑が減り、森林の減少が抑えられ、多くの人が助かります。
どちらを選択しますか?ということです。ですので私は肉食をやめることを強制するつもりはありません。肉食を続けることのメリット、やめた場合のメリットを量りにかけてよく考えて選んで下さい。そうして考えた結果、多数の人が肉食を減らし、畜産業者は困るかも知れません。
しかしそれに問題がありますか?誰かに強制されたのではなく、多くの人が考えて選択した結果なのですから。あるビニールの会社ではとうもろこしや生ゴミなどからビニールを作る技術を研究しているそうです。売り上げが落ちる(or可能性がある)→原因を探り、対策や代替案を考えるというのはどんな産業でも必要なことです。

こう言うと「要は、少数の方に犠牲になってもらって大勢の方に助かってもらいましょうってこと?」と思うかもしれませんね。
ですが、よく考えてみてください。どうしてこれを「犠牲」と考えるのでしょうか。あなたはものを買う時、どちらが自分にとって有益であるか考えた上で「選択」をしませんか?その選択の結果、あなたが選ばなかったものを作った人はあなたの「犠牲」ですか?普通はそうは考えないですよね。

6 なんで植物はいいの?−2−

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http://d.hatena.ne.jp/asakoo/20050723の続きです)
ここに関しては多くの方が関心を持っていることであるので、一部、インターネットや本の文書を引用しながらもう一度書きとめたいと思います。

●なんで植物ならいいの?

植物にも生命があります。感情もあります。愛情をかければそれなりに育ち、憎しみを込めて育てた花はすぐ枯れると言う報告もあります。
でも、あなたはリンゴをもぐように、鶏の首をしめあげて殺せますか?その二つの行為は、あなたにとってまったく同じですか? 「まったく同じ」とお答えになる方は、屠殺場で、実際の「殺し」を自ら体験し、自信をもって肉食を続けられることをお勧め致します。私の場合は、トマトをもぎとる気分で鳥を殺せません。稲を刈る気分で牛を殺せません ほうれん草を引っこ抜く気分でブタを殺せません。

あるデータから分かったことですが、動物愛護的な理由で菜食をしたと言うと 肉食する人にとって7〜9割の人が、 「なんか責められているみたい」など、不快に思うようです。

それで肉食の理由としてくるしまぎれに 植物だって生きてるよ!などと屁理屈をこねるしか逃げ道がないのだと思われます。

そういう方には、飼い犬の死と、植木鉢のチューリップの死と一緒か? と尋ねるとどうなのでしょうか。こういうとたいていの場合、議論は口論へと泥沼化します。肉食者たちと議論をしても、彼らは議論に負けても菜食になる可能性はほとんどゼロですから、議論はさけて、本人が興味を持ってくるまで本心を話さないほうが懸命だなとこのごろ思うようになってきました。

しかし“気付き”はある日突然、その人に合ったいろんなカタチで現れてくると思います。(一生現れない人もいますが) 私は彼らにも、その日が来る事を静かに祈っているしかないなと思っています(^^)

●線引きしていることは差別?
誰もが、結局は線を引いていないわけではなく「人とそれ以外」の間に引いているわけですよね。私はその線が「人とそれ以外」の間にあるよりは「類人猿と微生物」あるいは「牛とリンゴ」の間のどこかにあるべきものと思っているわけです。 もちろん明確な線など引けないかもしれませんが、少なくともそれは牛や豚や鶏などの向こうにあるべきではないかと。

で、そういった線引きをする所から差別が生まれるんじゃないか?ということに関しても考えてみようと思います。差別という観点からいえば人間が動物に対してやってることは差別だとは思われませんか?

何度か引用させてもらっている「動物の解放」の著者、ピーター・シンガーは、実は動物の権利というよりもスピーシズム:種差別 に反対するという考え方をとっておられる方です。権利の問題と差別の問題というのも表裏一体という気はしますが。

この問題に対するすっきりした答えというのは存在しないでしょう。配慮する範囲の線というのもなかなか引きがたいということも認めます。しかし、すっきりした答えが見つからない、線が引きがたいということが今、人間が動物に対してやっていることをこのままでいいと肯定する理由には全くならないと思います。


●「シュールだ」とか、「まずは動物からだ」とか感情で言うだけで、理由がわからない

『牛の苦しみにもリンゴの苦しみにも違いはない』 というのなら殆どシュールだ。と思うのは私にとっては感情というより常識だという気がします。

皆様は牛の苦しみとリンゴの苦しみを同じように感じることができるのですか。それとも感じるかどうかは問題ではなくて生きているのだから同じだという理屈の方が大事なのですか。

●権利の問題
動物の権利という言葉が最初に使われたのは、200年程前のイギリスでのことらしいです。ただしその時この言葉はまじめな主張としてではなく、女性の権利運動をばかにするために使われたそうです。「女性に権利があるなんていう連中はそのうち動物にも権利があるなんて言い出すにちがいない。ばかげたことだ」というように。植物はどうなの、という意見はなんかこの話に似ているように私には思われます。

それは動物の権利と植物の権利をまとめて積極的に認めようという発想というよりは、両方をまとめて一緒くたに否定しようとする発想ではないでしょうか。

植物の権利という概念が真剣に検討されることがありえないと言うつもりはありません。ただ、もしそうなるならそれは動物の権利という概念が当り前のものになった時でしょう。女性の権利というものが当り前になった現代にようやく一部で動物の権利というものが真剣に考えられるようになってきたように。

「まず動物から」
というのは良い悪い以前に必然だと思います。リンゴの権利に対する合意ができたあとに牛の権利に対する合意が出来たりしないですよ。牡蛎と牛の順序だとしても同様でしょう。動物の権利運動が女性権利運動の先に来ることはなかった様に。本当に問題なのは順序よりも一歩をふみだすかどうかということではないのでしょうか。

もちろん明らかに苦しんでると思えるものから先に何とかしてあげたいとは思います。それは感情論といえば感情論です。でも感情論だからと無条件に否定されるべきものでしょうか。それが普遍的と言わずとも常識的な感情だとしたらどうですか。理由を言えとさかんに言われますが一体どういうものだったら納得されるのですか。何か数字のようなものだったら満足されるのですか。

私はこの問題を倫理的なものと考えていますが、別に頭の体操のために机上の倫理的問題として考えたいわけではありません。今の社会とは違う合意を、もっと動物に配慮する社会となるような合意を作りたいと思っているのです。そのために話しあう土台としてはやはり常識:つまり共有できる考え方に頼るしかないように思うのです。


●動物の権利は認めて植物の権利は認めないの?
 私が動物の権利は認めて植物の権利は認めないという事は「動物の権利を認めるべきかどうか」という議論には何の関係もないということです。

 もし動物の権利だけ認めて植物の権利は認めないのはおかしいとお考えなのでしたらフルータリアンになるなりなんなりして植物の権利も守ろうとする道を模索されたらいいのではないでしょうか。それはそれで素晴しいことだと思います(ただ、前にも書きましたが植物の権利のことを言う人が真剣に植物の事を心配しているとは思えませんが 自分ではっきりそう認めている人もおられましたし)

 「神経もなければ叫び声をあげることもないからと言って植物を殺しても良いと考えるのは間違っている」という意見には一理あるとしても、そこからどうやって「目に涙をうかべ死の恐怖におびえ痛みを感じる動物」を殺しても良いという話になるのですか?

 或いは、フルータリアンになったところでリンゴの権利を守れないからだめだとか言い出す人がいるかもしれません。しかしリンゴの実というのは放っておいても木から落ちて腐っていくものです。その権利をどうやって守るのでしょうか?(だんだんと議論が馬鹿馬鹿しいものになってきてる気がしますが)
 
 そういった議論をする人はひたすら今のままで仕方ないのだという結論を出す事だけをめざしているのではないでしょうか。「生き物の権利はみんな同じである」=>「しかし、すべての生き物の権利を守ることは不可能である」=>「だから、今のままで仕方がないのだ」と持って行きたいだけではないのですか。

 あるいは私が動物の権利のことばかり言うのが、「気にくわない」というのが実情かもしれません。「気にくわないやつが言うことなど聞く気になれない」と言うことなのかもしれません。でもそれならそれはもうただの感情論で議論の対象にはなり得ません。

 そうは言ってもその「気にくわない」と言う気持はまるで分からないでもありません。多分それは日本にはもともと「生きとし生けるものを慈しみなさい」と言う仏教的精神の土壌があるためではないかと思います。西欧の場合にはそうした精神的土壌がないから、例えば痛みを基準に線引きをするといったある意味、合理的な考え方にそれ程、抵抗を感じないという面があるとは思います。

 しかし、もともとの「生きとし生けるものを慈しみなさい」という教えが(それ自体は素晴しいものだと私も思います)「生きているものはみんな同じだ」=>「だから、結局どうしようもないのだ」と曲げられて現実の動物の虐待を正当化する理屈に使われるとすればそれは随分、おかしな話だと思います。

 日本人はそうした仏教的精神土壌もあって江戸時代までは肉をほとんど食べていませんでした。明治時代になってから文明開化だの西洋にならえだのと明治天皇自ら率先してこぞって肉を食べるようになってしまったのです。そして肉食に反対する考え方が西洋から入って来たときには西洋にはならわずに「仏教的精神土壌」を根拠に肉を食べ続けようとするのでしょうか。変なもんですね。でも自分でこんな事をやっていて言うのもなんですが「動物の権利」という考え方を日本に根付かせるのは大変難しいでしょう。

 そもそも「権利」という概念自体が西洋から輸入されたものです。私は「人間の権利(人権)」というものさえ日本に本当に根付いているのか極めて疑問に思っています。

 もし根付いているのだったらどうして、「無理心中が後を絶たないのか」「通学中の児童にヘルメットをかぶる様に強制したりするのか」「君が代の伴奏を拒否した教師が処分されなければならないのか」「サービス残業の様な慣行が当り前の様に行われているのか」(他にもいくらでもありますが)・・疑問です。
 

 「人間の権利」も分かっていない様な国で「動物の権利」を説いたって無理というものかなと思う事もあります。日本で肉食を減らすという事に関して実質的成果をあげる事を重視するのなら動物の権利の話などは出さずにひたすら健康面の話をした方がいいのかもしれません。

みのもんたが肉を食べるなら週に一回か二回までにしておきなさい:と 言ってたぞおー」とか(ちなみにこれは本当にそう言ってました)でもそいつぁ、なんだか、とほほな話です。


●命を奪っていることは「客観的事実」かもしれませんが、植物も動物も細菌も命を奪うかぎり同じだというのはやはり、一つの主観に過ぎないのではないでしょうか。

別に私は自分の意見こそが客観的だと言うつもりはありません。倫理的問題に対する客観的な答えなどどうしたところで無理なものだと思います。


結局、目指すのは何らかの合意を形成することなのではないのでしょうか。奴隷制度はやめようという合意を作っていったように。まあその過程で戦争なんかもしてるわけですが。

●植物にも心があるとしたら、どう考えるのか
シンガーは動物に心があるから肉食はやめるべきだと言っているのではなくて「快苦を感じる能力があるから、苦痛を与えるべきでない」としています。 これに対しては、あなたのように、「仮に、植物にも苦しむ能力があるとすれば、植物も食えないのか」という質問をシンガーにした人がいます。シンガーはこう言っています「もしも我々が苦痛を与えるか、あるいは、自ら餓死するか、いずれかでなければならないとすれば、結果として生じる悪が少ないほうを選ばなければならないだろう。おそらく、植物の方が動物よりも苦しむことが少ないということは依然として真実であろうから、従って、やはり動物を食べるよりは植物を食べるほうが良いということになるだろう」このシンガーの回答に対して、マイケル・A・フォックスは次のように批判しています。「もしも人間がこの種の(絶対的な)生きる権利を持ち、「生じる悪が少ないほうを選ぶ」ことが許されるなら、人間は結局のところ人間以外のあらゆる自然に対して「道徳的優位」に立つことになる」確かに、シンガーの回答からはフォックスのような批判があるのは無理もないと思います。

他の批判としては、「動物に苦痛を与えさえしなければ肉食はいいのか(例えば、無痛で屠殺するとか・動物にとって苦しみのない環境で育てる)」というのがありますが、それは本当に苦しみの無い環境を用意することができるのかという実現可能性の観点、また経営における経済的な観点からも現実的ではないと思います。

なお、シンガーの思想の流れを受け継いだトム・レーガンも菜食主義や動物の権利についていろいろ述べていますが、いずれもシンガーより過激です。「たとえ、ある行為で動物が失う利益よりも人間にもたらされる利益が大きいからといって、それに対する道徳的非難が無効になることはない」、つまり、動物の利益も人間の利益と同等に考慮されなければならない、というのです。しかし、シンガー、レーガンが動物の権利を擁護する上で共に用いている功利主義は“人間の利益”“動物の利益”を想定して利益・幸福の総量を求める際に幸福を計量し、比較しようとしていますが、これは明らかに不可能であり、彼らの論の土台が不安定であることをうかがわせていると思います。(しかし、現状の畜産動物のあり方が私たちの倫理観を満足させない、という点については未だに真です)

飢餓状態の人々に穀物を回せるならばどんな方法が可能か、そもそも可能か。難しい問題だと思います。穀物があることが飢餓・栄養不足状態の人々に穀物をまわすための最低条件ではあるものの、かつて、穀物が過剰だった時にも飢餓・栄養不足状態の人々が沢山いました。これを解決するには、貧しい国が穀物の余っている国から穀物を買えないという貧困の問題や、貧困をもたらす様々な問題群(内戦・元植民地・政治体制・環境問題・女性問題etc…)を解決することも大切だと思います。方法としては、過剰に穀物を持っている国が持っていない国に援助する、NGOが援助する、穀物がない国が穀物のある国から穀物を買えるようなお金を生み出せるような方法を見出す、ということが考えられます。

食物連鎖や動物的本能を考えると、肉食は仕方のないことである

問題を単純化しないほうが良いと思います。今まで倫理がどのように形成されてきたのかを考えてみると、我々は力だけに拠らない仕組みを作ろうとしてきたといえるのではないでしょうか。先人達によって、力のある者が食糧から身体までを支配するような“力の論理に基づく政治”を乗り越えようと努力がなされてきましたし、今もなされているのではないかと思います。そして、マネーを力とする社会にも嫌悪感を覚える人は多いと思います。敷衍して考えてみたとき、我々が食物連鎖の上位に位置するからといって、力があるからといって、動物を支配することが倫理的に正しいとされるでしょうか。また、我々は本能的な行動を非難することがある(例えば、闘争本能、行過ぎた性本能など)一方、都合の良いときだけ本能に基づいてその行動を善しとすることは一貫性がないように思われます。

●肉食をやめる・減らすことはただ単に自己の倫理観を満足させるだけの単なる“おりこうさん”ではないのか。
単に肉食をやめる・減らすだけでは“おりこうさん”に過ぎないかもしれません。肉消費の削減によって実際に畜産動物の数が減るという効果はもちろんありますが、肉食をやめる・減らすことは一種の不買運動としてメッセージ性の強いものであるべきだと思います。自己の倫理観を満足させるだけでは世の中に変化を起こすことは期待できず、変化を待っているだけにとどまると考えるからです。したがい、求められる肉食をやめる・減らすあり方としては、微力ながらも世の中に変化を与えようという意識のもとに行動することであり、この姿勢を他の人にも伝えようとすることではないかと思います。

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参考文献
書籍
ピーター・シンガー、動物の解放、技術と人間、1988
ローレンス・プリングル、動物に権利はあるか、NHK出版、1995
シュレーダー・フレチェット、環境の倫理(上)、晃洋書房、1993
荏開津典生、「飢餓」と「飽食」、講談社、1994
ライマン、ハワード・F、まだ、肉を食べているのですか、三交社、2002
新田孝彦、倫理学の視座、世界思想社、2001
スーザン・ジョージ、なぜ世界の半分が飢えるのか、朝日新聞社1984
加藤尚武 編、環境と倫理、有斐閣、1998
Web
(社)日本中央畜産会、畜産ZOO鑑、http://group.lin.go.jp/data/zookan/kototen/

5 じゃあ、どうして植物は食べられるの?

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ベジタリアンだ、と言うと『じゃ、なんで野菜は食べるの?生きてる存在には変わりがない』『どうして植物はかわいそうじゃないの?』と、必ずと言っていいほど言われます。植物と動物の命に差があると考える思想はおかしいということです。
『動物の命を大事に思うのは良いことでしょうが、単に人間に近い 動きをするからということで動物の肉を食わないってのは、単に 見かけにこだわっているだけではないのかな。』そのほか『命の差別をしている』『筋が通ってない』…などなど。

ありがちな、素朴な意見です。菜食と聞くと瞬時にこう言って責め立てられるものです。植物と動物がちがうところは心・感情の有無でしょうか。もっとも植物に聞いたことはありませんのでほんとうのところはわかりませんが。

動物でも原始的なものについては喜怒哀楽の感情があるとはちょっと思えません。線引きが難しいところで、じゃあ両生類はどうか、爬虫類はどうか・・・・

ただ、牛や馬のレベルでいうと、明らかに人間に類似した喜怒哀楽の 種種の感情はあるわけです。どう見ても「単に人間に近い動きをする」だけの存在ではないでしょう。犬や猫をペットして飼うのも、単なる動くおもちゃとしてということではないのはわかっているはずでしょう。

ですから「心」を持っているものを、「感謝して食すこと」で済まして、果たしてよいものか。 このあたりはいろいろ考えるほどに葛藤はあるわけで、肉食の人はこの葛藤を回避するために、菜食主義もしくは菜食主義者は黙殺されるわけです。

でも、こう考えたらどうでしょうか。
自分で動物を殺して食べることって平気ですか?もし平気ならそれはそれでも結構かもしれません。でも「なんだか気持ち悪い・・」「動物の死体でしょ、怖い・・」なんて思う人であれば当然それらを選ばなくなると思うのです。私は、動物というより、同じ地球上の仲間として食べません。人間のお肉が売られてても買って食べないように。

「人間は自分が殺せるものしか食べてはいけません」と仏教学では教えられます。私は魚は殺せますが鶏は〆られません。だから食卓には魚が並ぶことがあります。

地球上の生物は全部、自分が生きるために必要なものを 必要なだけ食べていれば、殺生にはなりません。必要以上に欲をかくから、問題なんです。

大体、同じ種の生物(人間)を殺すのは人間だけです。これだけとっても「人間が最も上等な生物とは言えない」という ことは、多くの学者や思想家が言っている通りです。



http://www.fur-free.com/video/chinafur15fast.wmv:毛皮ができるまでこれを見られますか?

毛皮を買う人、肉を食べる人は、観るべきだと思います。私も最後まで観なきゃ!と意気込んで臨んだのですが、所々、目をつぶらずにはいられませんでした。…申し訳ない気持ちでいっぱいです。観たのはほんの一部なだけど…涙と鼻水が止まりません。また、ちゃんと覚悟ができてからもう一度トライしたいです。

多数決が流行しており、多ければ正しいような時代なので、少数派のベジタリアンはかなりの力、勇気がないと主張できません。

私もお肉を食べることがあります。私にそこまでの勇気がないからです。
完璧なベジタリアンになれないのは、先に書いた通り、ひとつは円滑な人間関係のためです。非難されるのを恐れ、つい、保身にまわってしまうのです。世間の目は厳しいです。ベジタリアンであることを告げるとそれだけで煙たがられます。それが怖いので心を許した人にしか言うことができません。それも辛いです。これもネットだから言えること…です。

4 肉食による体への弊害

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●私たちの体への影響
これは私が菜食である理由というわけではなく、人に説明するための理由でしかないのでそんなに詳しくはないのですが、一応挙げておきます。

肉食は私たちの体にとって害があるというものです。牛を屠殺する時、牛は機械で挟まれ逆さまにされ、喉をナイフで切り流れる大量の血の海でヌルヌルとすべって転げまわって苦しみます。牛たちは流れ作業的につぎつぎと殺されている所を見、さらに殺される時恐怖感で牛の体内に大量のアドレナリンが放出されるため、そういうお肉を食べる事は人間の体にも悪影響を及ぼすと言われています。
肉食過多の人の攻撃性が強いのはそういったアドレナリンを多く摂っているためだとも言われます。

それに限らず、動物の飼育中からも高いストレス環境にあるため、ストレス性の物質がたくさん肉の中には入っているのは間違いないと言ってよいでしょう。

これは我々の立場からの意見ですので申し訳ないのですが、動物愛護からベジタリアンになった人にとっては、人が食べているのを見たり、売り場で見たりするのは、とても辛いです。肉が売られているのは、肉を買う人がいるからです。肉を食べる人がいなくなれば、動物はこんなにも大量に殺されなくて済みます。みんなが楽しく平和的に付き合っていければ「自分」は虐待されてあげく食べられてもいい、と思いますか?

このように考えるのは、間違っているのでしょうか。


イヌイットや私が住むここのように植物が育たない地域があり、ベジタリアンという選択肢がない地域もあります。
イヌイットに関しては反菜食の方によく言われます。言葉足らずだったとしたらごめんなさい。私は肉食を否定しているわけではありません。寒く植物が生えておらず、氷の下の海にいる生き物しか食べる事が出来ない状況の人間に動物を食べるなとは全く考えません。

しかし私達のいる状況は、それとは全く異なります。殺して食べるために、あえて動物を改良しいじくり、無理に生ませ・・・・これらはもはや生き物と考えて扱うというよりは単なるモノ、製品作りのレベルです。

私は「必要以上に 殺したり、伐採することが問題」という考えです。この必要以上さったら、あんまりだと思いませんか!!

「他者に自分の考えを押し付けるというような愚直な行為だけは嫌ですね。」
とも言われます。押し付けに見えてしまったのならごめんなさい。 どうしても、強い主張を持つとそういう表現になってしまうのかもしれません。ただ、現実を知って欲しいと思ったのです。 現実を知って考えて欲しかったのです。

雑食の方をベジタリアンが軽蔑、軽視するのであれば、それは勝手な感情でしょう。でもこうも思います。畜産の実際を伝えようとするとそれを拒む、食べているモノがどうやって出来たのか、ただその事実を見てみないかと提案すると嫌がる人もいる。
これも勝手ではないでしょうか。

肉を食べたければ食べればいい。だけど、その実態を知り、承知の上で感謝して食べてもらいたい。お金を払えば自分の手を汚さず食べれる、どれだけの犠牲の上に成り立っているのか知るよしもない…。動物だけでなく地球の裏側では人間も苦しんでいる…。

「(人それぞれの)考えかた」と一言で終わることも間違いだと思うのです。思想つまり何よりも事実を知ることだと私は考えます。 真実は人により異なりますが、事実は万人に平等です。

「食べ物に感謝する」、と一言で言うことは簡単です。
ですが肉にしろ野菜にしろ、その食物たちがどのようにして自分の口に入ることになったのかを考え心の底から感謝するということは、とても難しいことだとは思います。私は本当にそれを実行できている人は少ないと考えていますし、自分自身食物を粗末にすることなどしないと思っていても、どこまでそれを実践できているのかわかりはしません。いくら考えても分かりません。

●種族にあった食と体の構造、肉食の健康への害

もともと我々は、先祖伝来、穀物と野菜を主に食べてきました。体の構造がベジに適している種族なのです。しかし、一昔の日本人と今の若い日本人では、内臓そのものが、変化してきているようです。生まれてくる子供達の腸の長さが、肉食に適合するために、短くなってきているのです。それは、肉は、腸の中で腐敗し悪性の菌や毒を生み出すので、種を絶やさないために、強制的に早く外に出すように短くなってきたということです。ここにも肉食の弊害が見えてきました。

我々日本人が肉を公に食べ出したのは、明治の初期からで、それ以前は、肉食禁止令がありました。明治の頃、牛肉を食べるようになった時は牛を殺した人は土に埋めて供養したそうです。 西洋人に認められたいがため、肉食を政治的に取り入れてきたのです。その弊害で、欧米的な病や犯罪なども比例して多くなってきました。日本の高度成長期を前後して、化学物質、肉食が盛んになってきました。その時に生まれた子供たちが、50代前半〜40代〜30代となります。その年代層から以下の年齢から欧米型の犯罪・病が増えてきています。残酷な犯罪・ガン・糖尿病・アトピー生活習慣病(小児成人病含む)などは、それ以前少なかったのです体に取り入れる物で、種も変化して行きます。賢く・冷静で・良心的に、道徳を重んじる日本人それが崩れてきています。

●畜肉と魚肉
畜肉は腸で腐敗しても、魚介類はそうはならないのでしょうか。動物性の肉の内、体のphを酸性にして、カルシウムを消費し、腸内で悪性の菌を増やす役割をする肉類は、順番から言うと、
牛→豚→鶏→魚になります。
(脂身の多い赤身の魚・青身の魚は、肉ほどではないが腐敗しやすく、悪性の菌を増やし、血液中のphを酸性にする。一方白身の魚は比較的腐敗しにくく、悪性の菌も出にくい)

●ベジは贅沢だというのは間違いです
私も一応人間だから、食肉になるために育てられ、食べられるために殺される運命にはありません。しかしここに同情心が出てくるからベジタリアンになるのではないでしょうか。

犬や猫がかわいい、あるいは自分がペットに癒される・・・動物も人間と同じように、自分と同じように表情があって、笑い、喜ぶ。その同じ動物がたまたま家畜?に生まれてきたばっかりに惨たらしい一生と挙句の死。あまりに不公平ではないか。それにここは飽食で肉以外の食べ物が山ほどある。

もし家畜が殺され食べられるのが当然なら、わたし達人間は蚊に血を捧げるために生まれてきたのでしょう。

3 肉食動物は肉を食べてるけど?

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●「肉食動物は肉を食べているけど?」
ちょっとばかばかしい気もするけど、これも言われることがあるので一応書いておきます。
例えば自然界で ライオンがシマウマを育ててから 殺すでしょうか。
狼が人間の子供を拾って育てたら 殺さず一緒に暮らすのが 動物の自然な情と言うもの
ではないでしょうか。 育ててから殺すと言う 自然界では考えられないようなことをする人間のことをどうしてライオンやチーターたちと同じレベルで比べるのでしょう。

人間も自然の一部?
もはや、そんなことは言えないんじゃないかという気がしてならない。世界中で起こっている惨事を目の当たりにするたびに、急進的だけど、人間は地球上にい続けてはならないのだという思いがしてならない。地球上で、人間だけが突出して異常な存在だと思う。

2 「みんなそれぞれ」という立場に異論


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●「みんなそれぞれ」「楽しいからいいじゃないか、おいしいからいいじゃないか」
『皆がお化粧をし、革靴を履いて肉を食べる。思うとこや事情があってなにかひとつでもや
めてみる。それでいいじゃない。完全菜食主義者であれ、肉食中心の食事をされている方であっても、それは個人の自由であって、それを批判したり軽視したりすることは、人として心狭い思いがします。互いの個性、主義を尊重して、平和的に過ごしたいものです。肉を食べないことが動物愛護だと考えるのならそれでも良い。家畜の無残な死を経験してそれを強く主張される方がいてもよろしい。肉が好きで毎日肉三昧な生活・・それでもよろしい。
同じ考えの人間は一人もいない・・・同じ物は何一つ無い・・・互いの個性や違いを尊重してお互いに認め合って楽しく平和的に付き合っていきたいものです。』

この考えは、人間として真っ当だと思います。ただ、人間中心に考えればその通りであることです。

しかし、畜産動物の権利のことを考えるとどうなのでしょうか?

●畜産動物の権利、ひどい現実

繰り返しますが、牛も豚も鶏も、家畜動物たちは、一生を暗く狭く密閉された檻の中に閉じ込められ、心身を病んでいます。その解決法は、動物舎を改善することではなく、絶え間なくホルモン剤、食欲増進剤、殺虫剤、抗生物質などを投与し体を薬漬けにすることです。ストレスによる尻尾の噛み合いを防止するために、歯と尻尾を切り落とされる子豚、ひなのうちに嘴を切断される鶏。牛も豚も肉質を柔らかくするために麻酔なしで去勢されます。屠殺場へ行く動物たちはそれは嫌がって叫び声をあげたり逃げ出そうとするそうです。動物たちは誕生から死まで、苦痛に満ちた短い生涯を強いられています。食肉は大量繁殖の為に100%人口授精させられています。最近は、利潤追及をめざすクローン動物の研究など、遺伝子レベルでの生命の改変が進められています。
生命としての全ての尊厳が奪われ、商品としてしか扱われていないのです。あまりにもむごい現実です。

かのトルストイはこう言いました。「肉食をするすべての人が 自分でそれらの動物を殺すことになったら 彼らの大部分は肉食を敬遠するようになるであろう」
レオナルド ダ ヴィンチはこう言いました。「私はかなり若い頃から動物を食べるようなことは絶対にしなかった。 動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。人間がこのことを認識する日はいつか来るだろう」

彼らには生への喜びなどありませんでした。自らのせいに感謝したことなど 一度もありません。死ぬためだけに生まれてきた そして生きたまま殺されていきます。

畜産動物を殺すのは 人間の感性から言ったら 明らかに残酷なのです。そして人間は 食べきれない肉を毎日 何トンも捨てています。こういう鬼畜な食生活は もう辞めにしませんか。自らに課せられた屠殺の穢れと言う責任を 他人に丸投げして 自分は穢れないようにしている ・・・。

こんな卑怯な行為も もう辞めにしたいのです。