「肉を食べる・食べないは個人の自由なんじゃないの?」

「単なる嗜好の問題じゃない」って日記を書いたけど
違う表現でそれを説明してくれる文章を見つけたので引用させて頂きます。

道徳の観点から言えば、他の者に危害を加える行為は、個人の選択の問題ではありません。例えば、殺し、幼児虐待、動物虐待は、不道徳な行為であり、選択の問題ではありません。現在、私たちの社会は肉食や工場式農業に働きかけていますが、かつて社会は、現在一般に間違っていると認識されている、奴隷制度、子供の労働などの習慣にも働きかけていました。

参考(英語で読みにくいけど、いいHPだと思う!)
http://www.macveg.com/vegetarian/translations/faq/vegan_vegetarian.html


ベジタリアンを貫くの、本当にしんどいよお…(><)
苦しむ動物が減らないのが苦しいです。

わがまま

職場の人と食事をしたとき、ある人が、肉を食べない私を見て、みんなに言った「そう、肉を食べないのよね。わがままなのよ、この子」


私はどう返答したらよいか、悩んでしまった。

菜食をしている理由を、正直に説明するか。
当たり障りなく、聞き流しておくか。

菜食をしている理由を説明することは、肉食の弊害を述べることである。
そんなことをされては、目先の「おいしさ」だけに目を向けている諸氏にとっては気分も害されるだろうし、せっかくの食事がまずくなってしまう。それに、このことはちょっとその場の短い時間じゃ誤解なく語ることは難しい。(時間をかけて話しても、私の話力ではうまく説明できずその弊害を伝えられないことが多々あるのに…)

結局、後者を選んでしまった。

肉を食べるということが「わがまま」であることなんだけどね。
いつか、気づくと思います。気づくといいな。


…ということがあったんだけど。
後日、その方の言動にショックを受けた。
魚は、怖いからさばけないそうだ。調理されたものも、顔がついていると生きてた様子を連想されるから食べられないそうだ。だから魚を食べないというなら分かる。が、実をほぐされて、生きていた面影が全くなくなった状態では好んで食べるそうだ。
これを聞いて、みんなはどうも思わないのだろうか??

言葉あそび

最近考えていた売春差別にまつわる問題。
http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070319#1174233369
を見ていて、面白い、と思うとともに
ふとこれは私の長年の悩みとリンクするのでは と思い、言葉を入れ替えてみて、改めてこの問題(私の方の)について見てみることにした。(くだらないので読み飛ばしてください)




★1

>売春を差別しないということなら、すればいいじゃないですか、売春。自分はしないなどと言わずに。自由売春で病気に気をつけてやればいいのに。
あなたの上記の言説は、この場合の、犯罪者一般を差別しないというんならあなたも犯罪者になれば?というのと同じですが、一般的な犯罪者の人権の尊重に対して持つ価値観(なり政治的な立場)を表明するためには、言説があれば十分であり、「犯罪者になる」という実践が伴う必要はありません。

       ↓

>動物を愛護したいと言うなら、やめればいいじゃないですか、肉食を。「自分は肉を食べる」などと言わずに。

あなたの上記の言説は、この場合の、動物虐待したくないというんならあなたもベジタリアンになれば?というのと同じですが、一般的な動物の権利の尊重に対して持つ価値観(なり政治的な立場)を表明するためには、言説があれば十分であり、「ベジタリアンになる」という実践が伴う必要はありません。

これに関してはちょっと趣旨がずれてしまいますね。動物の権利の尊重に対して持つ価値観の表明のためには実践が伴います。
この食い違いは、多くの人に「肉を食べることは動物虐待につながる」という認識がないから起こるのでしょう。
肉食は紛れもなく動物虐待によるものであるからです。

★2

「自分は売春をしないけども、売春をする人を差別しないという姿勢」が、差別を強固にすることに加担している。

       ↓

「自分は肉を食べるけども、動物を愛護するという姿勢」が、動物虐待を広げることに加担している。


肉を食べないことは不買運動につながるからね。
逆に、肉を食べることが何を意味するか。(周りにどういう影響を与えるか)


★3

私はあなたに「売春者を犯罪者と一緒にするのか」とは言いませんが、同じだと言われれば否定します。
しない理由がないならば、すればいいといっただけで、犯罪はしない理由があるでしょ。
売春は、どんなしない理由があるのかわからないから、もしないならすればいいのにと言っただけですよ。
まさか「愛のあるセックスがしたくない」とかの理由ではないですよね?
ならば、しない理由がないのに、と思うわけです。

       ↓

私はあなたに「肉食者を動物虐待者と一緒にするのか」とは言いませんが、同じだと言われれば否定します。
しない理由がないならば、すればいいといっただけで、動物虐待はしない理由があるでしょ。
ベジタリアンにならないことについて、なんでならないのか、どんな理由があるのかわからないから、もし理由が無いならなればいいのにと言っただけですよ。
まさか「肉がおいしいから肉を食べるのをやめたくない」とかの理由ではないですよね?
ならば、しない理由がないのに、と思うわけです。

★4

売春をしたくないと思うことが、売春婦を差別することだとは思っていない。だから売春婦にならない。んでしょ?

いや、売春婦にはならないけれども、それは売春婦を差別しているからではない。
売春婦にならない理由は別にあるから。たとえば今の仕事がやめられないし、並行してやる時間的余裕もないとか。たとえば自分の体に自信がなく、人に見られるのに抵抗を感じるとか。(理由付けの部分はasakooが勝手に改編しました)

       ↓

動物を愛護したいと思うことが、肉を食べないことだとは思っていない。だからベジタリアンにならない。んでしょ?

いや、ベジタリアンにはならない(肉を食べる)けれども、それは動物虐待ではない。
ベジタリアンにならない理由はほかにあるから。たとえば 野菜を調理する器具が家にないから。たとえば 知り合いの屠殺場から格安で牛の供給があるから。

そんなん周辺的な問題だよね。動物愛護を進める身としてはそんな小さな問題どうでもいいと思えるわけです。そんなんどうでもいいから動物を大事に思ってくださいと思うんです。


★5

>私は差別に反対するために自分が売春婦を実践する必要はないと考えます。

すみません。しない理由がわからなかったので質問しただけです。
ただ「あの職業は差別を受けているから、止めなさい、やりたくない」というのは、やはり、差別の再生産に加担していると思いません? 普通に考えて。

       ↓

>私は動物愛護するために自分が菜食を実践する必要はないと考えます。

すみません。ベジタリアンにならない理由がわからなかったので質問しただけです。
ただ「肉がおいしいから食べたい、肉食をやめたくない」というのは、やはり、動物虐待の再生産に加担していると思いません? 普通に考えて。


ちなみに、こうおきかえてみました。
○売春を差別はしないけど、自分はしないというスタンス→動物愛護は正だと思うが、自分は肉を食べる
○売春を差別しない→動物を虐待しない=動物を愛護する



要するに

  • 肉を食べることが「動物虐待」だとは思っていない。だから肉を食べる。
  • ベジタリアンにならないことが「動物虐待」だとは思っていない。だからベジタリアンにならない。

…って変なことしてるな〜自分

単なる嗜好の問題じゃない

優越感に浸ってるとか感情があるとかやさしいとか感性が豊かだと言いたいだけとか、なんでそういうふうに言われるんだろう。

私たちはそんなこと主張してるつもりはないしそんなこと思ってないのにどうしてそういって責められるんだろう。たぶん、「菜食です」この言葉だけで、そういった意味を勝手に読み取られてるのだろうなぁ。

ちなみに私は優しくないと思う。人間には。だって人間嫌いだもん。人間なんて滅びればいいと思う。自分が人間であることに引け目を感じている。なんてこと言うとちょっとオカシイと思われるかもしんないけど。いや、おかしいのかもね☆…それに、そう言う自分が死ぬことはできない…だから生まれる罪悪感。でも、せめて、千分の一くらいに減ったらいいのにな(必要以上に増えないということ)。…人間なんていなくなれば動物たち植物たちは助かると思うから、「菜食は飢餓を救う」なんて理由かかげたところで、私にとっては正直なところ、本心で言ってるわけではない。いかに肉食を減らそうか、と考えた末の、後付の理由でしかない。菜食は飢餓(人間)を救うけど、それよりも大事なのは植物も動物も救うということ。

自分さえよければ、と思ってるわけではないが、極論は言わないでほしい。肉食者の、菜食者に対する反論は、白熱するといつも極論になる。「じゃあ死ねばいいじゃない」と。「ほら、死ねないんでしょ?」と。そう言いたげなのが分かる。(そうはっきりいわないまでも。)
私は、生きている。そして、故意に死ぬ気はない。でも、私にできる範囲で、環境負荷を減らしたい、と切に考えて行動している。できることはわずかなことだが、そのひとつが、食生活の改革、つまり菜食への移行ということになる。

いかに人々の肉食を減らすか…
多くの人の賛同を得るために、言い方、理由はいろいろ考える。だから私の主張は一貫してないように見えてしまう。けれど、私の根本はそういうことです。

肉食を減らすのは少ない人数より多い方がより環境にいい。 だから賛同者を増やしたいと思っているだけなんです。 例えば省エネという行動もできるだけ多くの人にやってもらった方がいいのと同じ。

ベジタリアンは単なる嗜好の問題じゃない…。

人間って… ??

以下のような意見に会った。
「牛や豚の屠殺シーン画像見ても、それでも私を肉を食べる。スーパーの肉を見て、「あぁ、こいつらもあんなふうに殺されたのかな?」と考えたりする。はじめ見たときはショッキングだったけど、それでも私は肉食をやめようとは思わなかった。ただ、ああいう画像を見てから、いただきます・ごちそうさまは自然に口から出るようになった。それから肉だけじゃなく、野菜とか穀物も食い残さなくなった。 私はこれで十分だと思う。」

この考え方のように、事実を知ってその上でした選択なら、それでいいと思っていた。しかし、最近少し考え方が変わってきた。それは、「アイランド」という映画を見てから。

映画の内容はこんな感じ。ある企業が、利益を得るために、製品としてクローンを生産する。発注者が病気のときの臓器移植に使うために。そのクローンは元の人間とまったく同じに生成され、もちろん感情も持っており、地下に隔離された秘密の世界で人間として生活させている。「あなたたちは汚染された地球最後の生き残り」と言って洗脳させて…。そして、クローンたちは、宝くじのようなチャンスを与えられ、運が良ければ、地上で唯一汚染されていない楽園「アイランド」に旅立つことができる。しかし、それの意味するところは、元の人間に臓器が必要なとき−つまり、クローン人間は宝くじに当たって楽園などに行くのではなく、臓器提供のために都合のいいように殺されるのだ。製品として。しかし、元の人間は、自分のクローンたちが感情を持っていて、自分たちと全く同じ人間として生活していることを知らされない。植物状態だと教えされている。そうしないと、必ず「かわいそう、殺すなんてできない」という発注者の意見であったり、倫理の問題が生じて、商売が成り立たないから、事実は隠蔽されている。

この映画の中のセリフで心に残ったのがこのふたつ。
「人間は生きるためなら何でもする」
「誰だって自分が食べる牛が殺される場面は、見たくないだろう?」

前者はまさにその通り。何かにつけて、人間てそうだなぁ…私もそうだなぁ…と思って暗くなってしまう。後者の方は、―長くなってしまったが、ようやく本題―冒頭の牛(食肉)のことと繋がる。(ところで肉食者はこの言葉に対してどう思うのだろうか)

私のそれまでの考え―
「虐待とも言えるやり方で無理やり育てられ、激しい苦痛を伴い、残虐なやり方で殺されるという畜産界の現実を知って、見て、それでもなお牛を食べると考えるなら、食べればいい。」

「同じように、クローンに感情があるということを知った上で、それでも私は自分が生きるためにクローンを殺す、という考えなら、それでいい。」

でも、果たしてそうだろうか。(ただし、映画でのクローンたちは地下世界では普通にいい暮らしをしていたし殺されるのも苦痛を伴わないやり方なのでその点では畜産界よりも随分とましではある)

こういうことをぐるぐると考えてしまって、映画を観た後はしばらく何もしゃべることができなかった。いつもそう、頭がよくないのでその場ではなかなか自分の考えがまとまらず、今やっているように、この激しい感情は何なのか?と自分に問う作業が後で必要になる。

事実を知ってクローンはよくないと言う人と、それでもクローン賛成どんどんやろうと言う人との間には、どういう違いがあるんだろう?両者は何が違うの?なぜそういう違いが生まれるの?

両者の溝は、どうやっても埋められないものだのだろうか?いや、そもそも埋める必要はあるのだろうか?

溝を埋める…ところで、私はどうして埋めたいと思うのだろう?

ところで、人間は何によって人間たり得るのだったか?教育とはどういう目的で行うのだったか。社会化することとはどういうことだったか。倫理観を養うこと、義務教育では道徳の授業があること、それってどういうことか。

良識・道徳などの中に人間が人間たり得る根拠があるのは確かだろう。
マズローによると、人間にとって生きる原動力となる欲求は、「本能」、「安全」、「所属」、そして「承認」と段階的に成長する。しかしこの4段階までは動物の世界にでもあることで、人間が人間たり得るのは、5段階目の欲求である「自己実現」の到達に向かって生きるということだ。 )

でも、一方で、こうも思う。人間はこれまで、何をしてきたか?人間が、一体どれほど地球上の動植物に害を与えてきたか。人間は、人間であったが為に、地球の癌となったのではないか。

とすると、人間であることに、どういう意味があるのだろう。人間であることの誇り?人間としてのプライド?それってどういうこと?人間であることがそんなに高尚なことなの?完全に食物連鎖から外れてしまった存在である人間。地球を征服しようとしてきた人間。なんで人間だけがそんなに偉そうなことができるんだろう。人間以外の全ての生き物を支配していいと思っているんだろう。人間はこれだけ好き放題やってて…それらは人間だけに許された特権なのか。

そう思えない、ということや、人間だから、倫理観を持っていて、クローンがいけないと思う、動物虐待がいけないと思う、生き物の権利を尊重する。しかし、人間でなければ、そもそもクローンなんて作らないし、虐待もしない。

う〜ん?このあたりで、わけがわからなくなってきた。

ところで、環境破壊とも照らし合わせてみると、上のことと全く同じことが言えると思う。
人間だから、欲があるから、地球をどんどん壊してきた。でも、壊れた・壊れかけた環境を修復できるのは人間しかできない。人間だから、地球を守ろうとすることができる。

こう考えると、結論は、やっぱり原因を作った人間が悪いということになる。しかし、原因は原因として、今なすべきことはやはりそれを反省して、よい方向へ導くべく努力することだろう。それにはあまり異論を唱える人は無いと思う。(あるとは思うが、少なくとも地球を守りたいという感情を「おかしな考え」、とは思われないことでしょう、ベジタリアンキチガイ扱いされるのに対して)それは、環境が破壊されてきたという事実の認知が広がったことと、それを守ろうという考え方が人間に定着してきたからだろうか。

クローンの問題も、動物の権利の問題も、そして肉食による弊害の問題も、先の環境問題と同じように、要は、時間の問題ということなのだろうか?ベジタリアンキチガイ扱いされない日が来るのはいつだろうか。「地球を守りたい」という気持ちで行う―浜辺のクリーン活動や砂漠の緑化活動、植林…などと同じように「菜食という選択」も並べられる日がくるのだろうか。事実が広まり浸透していくとともに、徐々に菜食が増えていくのだろうか。そう願ってやまない。

友人による菜食への理解

大学の実習からの帰りのバスで、話す気は無かったのにひょんなことから菜食への思いを語ってしまった。(ある映画をみてすごく考えたのだけど、その話題になったことから菜食の話に及んだ)

話し始めたら後にはひけず、途中、あ、しまった…と思ったけど 話す相手が理解ある人で助かった、と思った。(それでも傷ついたことがなかったといえば嘘になるけど)

ところで、私はいつも、この主張をするときは言いたいことが言えないまま我慢して終わってしまうんだけど、一体、自分の意見を主張することの、何に躊躇してしまうんだろう。

賛同してくれとは言わない。賛同してくれるはずがないと思うから。これまでの経験的に。かといって、理解してくれとも思わないつもり。それを期待して、悲しい思いをしたことがあまりにも多すぎた。

肉を食べない理由を言ったときの、相手の反応が見たくないだけなのかもしれない。というのはやっぱり、賛同してほしい、変わって欲しいと思ってるからなんだろうなぁ。はぁー。裏腹だなぁ。というか、こんな理由って、ただ私が弱いだけってことだよね。逃げてるってことだよね。いやだなぁ…自分。

相手に気を遣わせるのがすごく苦手で「こう言ったら相手はこう気を遣っちゃうかな…」とかすぐ考えてしまって(普段、無意識にはすごく自分勝手な人間なのにね。なのにおかしいと思うけど、このことに関してはすごく考えてしまう)
私が「肉は絶対食べない!!」って言ってしまうと 何人かで食事するときなんかに、私がいるせいでお店選びに制限ができてしまったり(だってみんな優しいんだもん!!><)、買出しでも、肉に偏らないように考えさせてしまったり。なんか、そういうのが申し訳なくてしょうがない。

だから、「食べれる、大丈夫」とか、「何でも食べれるよ」(言っといて食べないけど)って言って、自分を偽ってしまう。「適当にやってるから、気にしないでいいよ」とか。

そして、私のその曖昧な態度がよくないと言われた。でも、そこまで私は強くない。強くなれない。すぐ泣いてしまう。すごく辛いんです。それを我慢するのが精一杯で…。ごめんなさい。ごめんなさい。

「動物がかわいそう」という言葉は、 裏返せば「肉を食べてる人は動物にかわいそうな事をしている輩」という中傷になる。だから、言いたくない。そう思ってないから言わないのではなく… そんなこと、口に出して言えるわけがない。(それに私は別に優しい人間ではないので、そう言うことにかなり罪悪感がある)
これは一例だけど、ほかにも思うところ、でも言えないことはたくさんある。だから余計態度が曖昧になってしまう。私が言うことが曖昧なのは、いろいろ考えてしまうから、迷いがあるから、小心者だから。 曖昧にしか言えないのは、肉を食べてることを非難されたと相手に思われないように気遣ってであったり、また、ずるいけれど相手の非難から自分を守るためであったりする。

自分の主義主張を貫くと、必ず衝突が起きる。自分の意見を貫こうとするなら、自分の周りの人全員を敵にまわすまでの覚悟をしなければいけないでしょう。確固たる信念があるなら、嫌われてもいい、うざったいと思われて、それで離れていく友達なら、そんなの切り捨ててしまえばいい、誰にでも好かれるのは所詮無理なこと、一人でもいいじゃないか。そう割り切って、自分の信念を貫くべきだ。

確かにそれは正論だと思う。…でも、私にはそんなことできない。怖いよ。すごく。また、それができないから、自分の中に矛盾が生じて、悩みはとめどなくなってしまう。

●なんで菜食なの?

2005.4.なんか、思うままにつらつらと書いてまとまりがないようなので一度、まとめてみたいと思います。

一 なぜ菜食か

大抵の人、特に若い子などはお肉が大好きですね。「焼肉食べに行こう」は人が喜ぶ代名詞みたいに言われているし、彼らが言うには、なぜか分からないけど時々無性に肉が食べたくなったりもするそうです。肉を食べないとイライラする、というのも聞いたことがあります。恐らくそれが普通なのでしょう。私の家族も普通に肉を食べます。私は一般的な家庭、一般的な環境で育ったと思うのですが、なぜ家族でも私一人がそうなってしまったのでしょうか。

 菜食の理由は、人それぞれあります。健康のため、環境保護のため、動物愛護のためなどがその代表です。私が菜食の考えを持つきっかけとなったのは、まずは動物愛護の観点からでした。それは高校時代の馬術部での経験が大きく関わっているような気がします。馬に乗るだけでなく部員には馬の世話も大きな役割だったので、休日にも持ち回りで厩舎に通い、ボロ取り(フン拾い)やチップ換え(馬のお部屋にしきつめているおが屑を取り替える)、シャンプー、時には怪我の看病などもありました。(と言っても看病なんかは学生に任されるのはそうそうないですが。)彼等はブラッシングすると気持ち良さそうな顔をし、ひっかかってひっぱったら痛いと言って怒るし、人間が後ろに回ると恐がったり、下手な人がぐずぐず乗ってると嫌そうな顔して落とそうとしたりなど、私たちと同じように感情豊かです。私たちにとって馬はとても身近な存在で、愛情をもって接していました。そして、そのような馬を食べられなくなった事に端を発し、牛や豚に展開していきました。そして、菜食の実践は、親元を離れすべて自分の食事は自分で用意するようになったことで可能となりました。

 また、以前から関心のあった地球環境問題の視点からも肉食の及ぼす悪影響は甚大であることを知るなど、勉強するにつれ次第に菜食に対しての考え方、思いはしっかりとしてきました。そうは言っても、まだまだ、知らないことがたくさんあります。私は今大学院生で、自分の研究はこれとは別のところにあるのですが、正直なところ、動物とか菜食とかについて勉強したり考えたりすることが、今、私の一番したいことです。そういうこともあって、ここで書くような思想についてはなかなか表立っては言えません。

 人が肉を食べるのは、まずそれがおいしいからというのがあります。私もそれは実感として分かります。また、家庭や学校では半強制的に肉を食べさせられ、大人になります。では、なぜ動物を食べることに疑問を抱くことなく笑顔で食べられるのでしょうか。

 それにはまず、日本に肉食の文化をもたらした欧米のキリスト教の考え方があります。「人間は神の像の通りに造られ、地上を支配する使命を帯びて造られた存在だが、動物は、人間によって支配され、食糧にされてよい」という教えです。(「肉食の思想」鯖田 豊之著 中公新書(欧米の肉食習慣の自然的、歴史的、社会的分析))

 次にデカルトの思想です。懐疑の結果たどり着いた「我思う。ゆえに我あり。」という彼の哲学の第一原理で説かれる「我」は、魂と同義語です。人間の体も、動物の体も精密な機械である点は似ているが、人間は魂を持っているのに反して、動物は魂を持っていない。そして、意識や感覚の主体は魂なので、動物は意識も感覚も持たない、たんなる精密機械に過ぎない。だから、動物は苦痛を感じない。と彼は考え、この考えによって人は肉食への罪悪感は払拭されるだろうと言っています。

 現代に生きる私たちの知識では、キリスト教デカルトも、その動物観については明らかに事実に反している事は知っています。しかし、現代人が抱いている動物観の根底には、本質的には、これらの思想と同じように、人間と動物の間には断絶的な価値の差があり、その苦痛も顧慮するに値しないという価値判断が働いていて、肉食は許されるという暗黙の了解があるのでしょう。

二 肉食の弊害と菜食

簡単に3つ挙げるとすると、
1、肉食によるエネルギーの膨大なる無駄
2、温暖化と森林破壊
3、動物たちの苦痛          があります。

  1. 簡単に言うと家畜にトウモロコシ等を食べさせてその家畜を食べるより、直接トウモロコシを食べた方がエネルギーの節約になる、ということです。牛肉に含まれる1kgのタンパク質を得るのには、大豆に含まれる18kgのタンパク質が必要です。これは単純に考えて18倍のエネルギーを無駄にしていることになります。日本において、家畜に与えている穀物の量は日本人が生きていくために必要な穀物量の倍量です。それだけの穀物を、肉食べたさのために無駄にしていると言えるでしょう。しかも家畜用穀物は全て輸入です。これを世界の飢えで苦しんでいる人たちに渡すことができたらどんなに救われるでしょうか。
  1. 家畜の出すメタンガスは温暖化の要因となっており、アメリカでは牧畜が水質汚染の第一の原因となっています。
  1. 牛も豚も鶏も、家畜動物たちは、一生を暗く狭く密閉された檻の中に閉じ込められ、心身を病んでいます。その解決法は、動物舎を改善することではなく、絶え間なくホルモン剤、食欲増進剤、殺虫剤、抗生物質などを投与し体を薬漬けにすることです。ストレスによる尻尾の噛み合いを防止するために、歯と尻尾を切り落とされる子豚、ひなのうちに嘴を切断される鶏。牛も豚も肉質を柔らかくするために麻酔なしで去勢されます。屠殺場へ行く動物たちはそれは嫌がって叫び声をあげたり逃げ出そうとするそうです。動物たちは誕生から死まで、苦痛に満ちた短い生涯を強いられています。食肉は大量繁殖の為に100%人口授精させられています。最近は、利潤追及をめざすクローン動物の研究など、遺伝子レベルでの生命の改変が進められています。生命としての全ての尊厳が奪われ、商品としてしか扱われていないのです。あまりにもむごい現実です。

 動物を食べる人はこれらのような事実を知っているのでしょうか。食卓あるいはスーパーに置かれたきれいな肉と、生きていて感情も持っている動物たちとを、同じだと認識しているのでしょうか。知らないだけか、あるいは分かってて目をつぶっているのでしょうか。

三 周りへの呼びかけと、現実

 私は、環境問題や肉食への意識の如何は、往往にして知識の問題だと思い、現実を知らせ、打開策を打ち出せば人の意識は変わると考えていました。身近な人からと、地道に友達や知り合いに話したりしていました。また生協に頼み、生協発行の冊子に環境ページを連載させてもらったりなどとしてました。説明は分かりやすさを心がけ、本当に些細なことを提案してきました。しかし、そうやって呼びかけたりいくら熱く語ってみても、意外なほど反響もなく、またその後の人たちを見ても影響は殆どと言っていいほど見られませんでした。悲しいことに私の期待は無惨にも崩れ去ってしまったのでした。

 人は生きてきた過程が全く違うから、同じ気持ちになることはありえません。みんな違う、そのことは分かっています。また私もあまりえらそうなこと言えるような人間でもなく、私が余暇に楽しんでいる趣味も、極力気を遣っているつもりではいても所詮”つもり”であって、地球に悪い影響を与えていることは事実です。それどころか、そもそも生きるためだけの最低限のもので暮らせればいいと思ってもそうする勇気もなく、趣味のものにお金を使ったり、甘いものも大好きで無駄に食べてしまったりもしています。それなのに、日常の中の節々で、動物が、地球が、かわいそうと感じ辛く思っている自分は偽善者なのかとも思います。

 こういうことに罪悪感を感じるのも、自分が生きているから、それも先進国に生きているから、出来ることです。先進国のせいではあるけど、その罪は先進国の人がかぶるべきだと思います。自分の親たちが築いてくれた暮らしやすい生活の、陽の部分だけでなく陰の部分も引き継ぐことは、楽に暮らしている自分たちの義務だと思います。途上国の人は環境問題はおろか絵を描くことすら、余裕がないですから。


 しかし、先日、真面目に話していて、私の言うことは所詮きれいごとである、自己満足なだけであると、批判されることがありました。熱くなっている人はその他のことに目を向けられないで一義的にしか考えられない子供だとも言われました。私の提案・呼びかけは、相手のことを思い遣ってない、全く自分勝手な押し付けだと。そういうのは自己満足なんだから、自分の中だけで思ってるに留めなさい、人に強く言ったりするのはだめ、人に対する思いやりや配慮が足りないよ、と。私の行いは私の為にしかなっておらず全く動物や自然の為にはなっていなかったのでしょうか。そう考えるととても辛く、やりきれない思いでいっぱいになりました。

 具体的には冊子には「自然に親しむためのキャンプで使い捨て容器を使って、自然を汚して、これに対してどう思いますか」「家庭排水の汚染(しょうゆをこれだけ流すと魚が棲める清水にするのにこれだけの清水が必要)」「割り箸は間伐材皆伐材とがあって、間伐材はいいが皆伐材にはこんなよくないことが!」「洋服など繊維もリサイクルできる、捨てないで」などなど、小学生にも読めるくらい簡単な表現を心がけて、このようなことを書いてました。身近な人にも、このような身の回りの小さなことを言ってきました。それはよくないことだったのでしょうか。私の思想を押し付けていたことなのでしょうか。私としては、「ポイ捨てやめよう」という看板と同じレベルだと思ってやっていました。「ポイ捨てはやめて」と言われて、「そんなこと言わないで。貴方の考えを押し付けないで。」と憤慨する人はいるでしょうか。まずいないでしょう。ポイ捨てがいけないということは皆分かっているからです。それなら、どうして「しょうゆを出しすぎないで」というのはダメなのでしょう。どちらも環境負荷がある、という点では同じです。その境界線は一体どこにあるのでしょうか。その主張がただ市民権が得てないからというだけではないのでしょうか。

 問題の最も効果的かつ確実な解決となるのは「人間への」でなく「地球(動物)への」感情(思いやり)や罪の意識だと思います。それがないと根本解決にはなりません。ですがそういった、「思想」は、ある意味宗教的です。それならば全員にそれを期待することは結局は無理なことだと諦める他はないのでしょうか。

 私の思いは自分の中だけに留め、人には要請しない、一人で悩み続けなければいけない、ことなのでしょうか。でも、この問題ばかりは、自分だけではどうにもならないことなのです。周りの協力あってのことです。一人より二人、二人より…そうやって、例えば醤油は余分に出さないようにするとか、小さな小さな行動だとしても、学校の人全員でも、小さな行動は大きな行動になります。私一人しかこれをやっていなかったら、努力空しくやっぱり地球にとっては何にも変わりません。

 批判され、その内容に納得できる部分もありました。私の考えも、まだ迷いもあり発展途上です。いっそ諦めてしまい、こんなこと考えずにすめばどんなにか楽でしょう。けれど、これは思想とか、自分の心の中だけで、とか、どうしてもそういうレベルの問題には思えないのです。理想の実現は不可能とあきらめて何もしないよりも、どれほど小さいことでもよいから自分にできることから始めることのほうが、はるかに価値のあることだと思います。人には快適に生活していくうえで譲れないところもできないこともあるだろうけれど、先進国に生まれた私たちはその中でも自分のできることを探して、小さなことでもやっていこうとしなければならないと思います。

こんなこと書いてたら嫌われそうですね。現実世界では滅多に言いません。だからここでこうやってひっそり頭の中のこと書くことにしたのでした。

―――――――――――――――――――――――――――――――
参考文献
1)「食の思想」鯖田 豊之著 中公新書
2) 「地球生物会議 (ALIVE)」  http://www.jca.ax.apc.org/alive/index.html
3) 「動物実験を考える」 野上 ふさ子著 三一書房
4) 「ベジタリアンの健康学」 蒲原 聖可著 丸善ライブラリー
(医学的、栄養学的にみたベジタリアンフードの勧めについて書かれています。とても面白いです)
5) 「BONVENON,SALUTON KAJ DANKON」  http://www3.vc-net.ne.jp/~kubu/ 
エスペラント語のページ)