●罪悪感と自分愛護、自分で自分を納得するということ

asakoo2004-08-27

このことについては書き出すとキリがなくなってしまうのだけど・・・
なんか、自分の中は、一生すっきりしないんじゃないかって気がします。…悲しいけれど…。

私は、欲のままに環境破壊する人間が嫌い。人間である自分もまた嫌い。
環境保護を呼びかける活動をしていた、これからもしたい、と思うものの
そういうふうに、自分で自分を納得していないのだから、 人にも説得できないのかもしれません。自己愛護ができなければ、きっと人に納得してもらうこともできない。

でも
自己愛護は、私の理想が叶えられないと実現しないと思うのです。。。

私の理想というのは、まず、環境への負荷を最低限にした暮らしです。
趣味など、贅沢なものは一切捨て、質素で清貧な暮らしがしたい。または財産を全て環境保護や寄付など慈善事業に充て、自分自身も体をはって積極的に活動したい。

それができれば私は「偽善」という言葉から逃れられると思います。でも逆にそれができれないうちは、やっていることはささいなことに過ぎず、他人になにか言うこともおこがましくてなかなかできません。

強い意志があれば可能なことなのかもしれません。でも、言い分けになるかもしれないけど現代の先進国に生まれてしまった私にはどうしても踏み込めないのです。楽しいこともしたい、甘いものも食べたい、かわいい洋服も欲しい、それに寄付どころか、資産運用なんてしだす始末…

それらをしている人が悪いというのではありません。(いや、本心では悪いって思ってるのかもしれない)
ただ、先に述べたような「環境負荷の最低限の暮らし」などという「理想」を持っている限りは、いけないことだという気がして、自己嫌悪に陥らずにはいられません。でも、これじゃいけない、でも今の暮らしも捨てられない、…その葛藤が苦しいです。

今の私は、自分の快適な暮らしは保ちつつ、その上で環境のためにできることはできる限りはする、というくらいです。肉は食べないとか、クーラー使わないとか洋服のリサイクルとか… あくまでも、基本的な自分の快適さは捨てられず(つまり自分中心がまずあって)、その上で、ちまちまとしたことしかでいない、といったところです。

私のように、今の暮らしを捨てずして、それよりも上の理想を持っているなら、それは偽善と言うのではないでしょうか。。。?

理想は高くあるけれど、それができないうちは悩みや罪悪感は消えません。そういう、自己嫌悪があるわけですから当然、自己愛護もできません。
では、強い意志を持って理想は叶えられるかというと、それもできません。
となるると私は、一生、自分のことが好きになれません。

「好きなことや楽しいことばかりを追いかける愚か者」と
私を攻めるのは、私自身です。(;;)


悩みはふたつあって
これは私自身の内面に関する悩みでした。

もうひとつはそのことにまつわる対人関係における悩みです。