●先生との、環境の話での衝突

木登りにゃじさん

堀先生と話していて思ったこと。

堀先生はある意味では悟ってらっしゃり、私たちとはかなり違う考えをお持ちです。それゆえ、考えさせられることが非常に多いです。「えっ!?」って思うような内容でも、先生のあまりの自信に、ときどき私の感覚方が間違ってるのか、マイノリティなのか、と不安に思うことさえある。いつも、先生と二人で確かめられる場があまりないのでこういうことがしゅっちゅうです。


環境問題を強く主張している人に対しての先生の言葉。

  • 「環境のこと、そのせいで私はすごい被害を被った。結局その人たちは環境保護が趣味みたいになってるのよ。環境環境って言ってるけど環境の為になってるなんて思えないわ。食品のふたのセロファンやプラスティック容器を、洗剤で洗って水を大量に使って分別するなんて、あれってすごい水の無駄じゃないの。」(これは私も思います^^;)
  • 「○○学園の親戚がいるの。あなたと同い年よ。私はこの子といるとすっごく疲れるの。病人のいる部屋で温度を23度にしなきゃいけないのに、次から次へとエアコンを消しまくる、使わない部屋は電気を消しまくられるけど私は明るいのが好きだから後ろからついてまっわって電気を付けて歩くいたちごっこになる。半額とか値引きの賞味期限が近い食べ物は私は絶対いやなのに、そういうものを買ってくる。そして、定価で買ってくるとすごく怒る。」
  • 「母が『ドクダミがいい』とドクダミを部屋に干してたらそのことを忘れて乾燥してバリバリになって散らばってしまった。部屋中掃除しなきゃいけないハメになったのは私よ。お味噌汁の貝殻は庭へ、茶殻はどこどこへ、と環境を考えるとやる工程が多くなるから結局できなくなるのよね。それで面倒くさくなるのか忘れるのか、母はやらなくて後始末をするのはいつも私、・・・・。私、もう、イヤ!!ってなるの。本当に疲れるわ。そういう経験があるから私があなたが言ってる環境のことに反発するのも分かるでしょ?」

先生は極端で特殊な例ばかり出すけど、上の例みたいな、そんなのがおかしいなんて私だって思うよ。私はできる範囲でしか要求しないよ。でも、それが例え全然苦にならない範囲でも、先生は過去のトラウマのせいで過剰に拒否反応をしてしまうんですよね。一種のアレルギーになってるよね。

  • ある日、先生が6時間とか会議で部屋に帰ってこないのを分かってるから、その間だけ電気とエアコンを消した。私がそんなことをしたのを知られるとまた逆鱗に触れるので、会議が終わる30分くらい前にまた電気を付けておいた。…ところが先生にそのことに気づかれてしまっていた。「私はいつも部屋を快適な状態にしておきたいの。勝手に消さないで頂戴!貴方消したの知ってるのよ。一度忘れもの取りに帰ってきたんだもの。」
  • 塗り箸がたくさんあるので、学校での数人の食事(自炊)の時配った。ここにある割り箸は、全て皆伐材である。中国の洪水事件を思ってもとても胸が痛む。先生曰く、「塗り橋はつるつるして使いにくいから割り箸がいいわ。他の人もそうだからみんなの箸を割り箸に変えて頂戴」
  • よく、学校の水道がものすごい勢いで出しっぱなしになっていて、ぎょっとする。というのも、先生は朝学校に来たら、自分の使ういくつかの部屋の水道の水を時には一時間から二時間、流すのが習慣だからだ。曰く「なんとなく、最初の水は汚い感じがするのよね。」
  • 参考文献のコピーは、「使用」「保存用」「切り貼り用」「予備」「予備2」の5部必要。最低でも4部しないと許されない。納得できないでいると、厳重注意と説得が、延々と続く。深夜にまで及ぶことも珍しくない。しかも、間違いを冒したその日に限らず、後日繰り返して長期的にお叱りと説得が続く。「長年やってきたことなんだからいちいち反発しないで黙って聞いてればいいのよ。何も分かってないんだから」後期に使う学生用の感想用紙を作ったが、そのコピーを、600部、必要量の倍、頼まれた。「余分にあると思うと安心するから」「もしかして○○先生が使うかもしれないから」
  • メモ用紙に、ミスコピーなどの裏紙は絶対に使わない。「なんかみすぼらしい感じがしていやなのよ」再生紙は嫌い。それどころか厚紙を使う。しっかりしていていいらしい。

う、うん、そうだね、みんなそう思うよね、だけどさ・・・・。

  • 「ドイツや北欧では(長期間住んでいた)、野外でヒーターをいくつもがんがんに使って空気を暖めているのは当たり前よ。」


でもね、私が地球のことを想うと、その色々な行動に対して、すごく胸が痛くて涙が出てくるほど辛くなってしまうことは、考慮してもらえないの?

環境破壊の行動が時々見せ付けのように私の前で行なったり、さも嬉しそうにそういうことを見たことを語るのを、私がどんな思いで見ていると思っているんだろう。聞いている間どんな思いをしていると思っているんだろう。


人を挑発させるようなことを次から次に言って、そして人がむきになるのを喜んでいるような感じがする。(実際数年前に「そうよ楽しいわ」なんて自分でも仰ってらした)
「主義というものを持つ人は、ある考えに偏りすぎているのがよくない。公平な目で物事を見ることができないからだめである。」
「画家は自分の絵画論をめったに書くことがない。かけないからだ。私はこれだけ書いているがこれだけ書ける人はいない。私を認めている人は素晴らしい人ばかりで(著名な人の評の例を挙げて「この人もよ」)、そうじゃない人はついていけてないだけ。○○先生は私の絵をよくないなんて言ってるけど、あの先生は最近の芸大の絵はよくないって言ってるわ。新しい感覚についていけてない証拠よ。」「こんな経歴で、こんなすごい人に従事して、こんな経験をして、・・・・・」
あんまりにも繰り返し自画を自賛されるのと、聞いていてとても疲れてしまいます。

「相手の気持ちも考えて」って、私そこまで自己犠牲をしなければいけないんでしょうか。
先生に対しては意見をもつことは許されないんでしょうか。