●清貧な暮らしができないことへの罪悪感

聖にゃじ

清貧な暮らし。

そのへんでは大学の指導教官の先生とも共感したところです。
「でも、そういう暮らしをすることに幸せと喜びを感じて生きている修道女は、恵みがあって、私はそういうのじゃないから、できないと思った。」と先生は語ってくださった。

つまり、そういう暮らしができるのもまた天性のもの、ということらしい。(多くの人が思うように、そんな暮らしをしてたら人生が楽しめない、もったいない、とかそういうんじゃなくて。)

「恵み」、それがあるかないかの違いなんだって。
そっかー。そういう考えもあるのかぁ。それは考えたことなかったな。

でもそう考えると楽かもしんない。
「自分はそういうことできないから悪だ」って思うんじゃなくて、例えば「私はイチローみたいに野球の才能があるわけでもないし、吉川ひなのちゃんみたいに綺麗でもなければaikoみたいに歌がうまくもない、はたまたピカソみたいに絵の才能があるわけでもない。それは、それぞれの才能なんだ。でも、私には私のよさがある。」そういう風に自分に納得すること、かなぁ。

罪悪感。

先生も、これはあるとのこと。ただ私はそれが環境に向かってて、先生は人に向かってるってことなのかもしれない。

私は自分も人間でありながら悲しいけど、誤解を恐れずに言うならば人間に嫌悪感を感じている。人間は欲深く、汚い悪だと思ってる。だから人間には優しくできないんだと思うんだ。砂漠に木を植える活動とか海を綺麗にする活動などは共感するし自分もしたいと思うけど、老人ホームでボランティアとか介護施設で…とかは、あまり思わない。だって人間が生きてるから地球を壊してるんだよ?悪人なんだよ?(ただ、高校生のときはあまり深く考えずによかれと思ってそういう奉仕活動をやっていた)

そう思うから、人間の命を増やそうとも延ばそうと思うことにも消極的になってしまう。こんな、自分の快適さばかりを追い求めて欲まみれの人間なんて生き物はいなくなっちゃえばいいのに。そうすれば地球は助かるのに。。。そうしたら地球に笑顔が戻るよ。(もう手遅れじゃなきゃいいけど…。)ただ、人間である自分がこういうことを言うのは偽善的で憚られるものだろうか。人として異常なんでしょうか。ここで、いつも立ち止まってしまうのだ。

人間たちとは反対に、環境や動物って、すっごい綺麗だよね。一見、動物たちが何かを無駄にしてるように見えることがあっても、自然界はうまくできててちゃんとほかの誰かが処理して…っていうふうに循環してるんだよね。彼らは純粋で、欲はあったとしても最小限でしょ。彼等はそうは思ってないんだけど、そういうの、すごく素敵だと思う。人間もそんなふうに綺麗に暮らすことができたら、私は、自分を含め人間を嫌うことはなかったんだ。

(私が指す「人間の汚さ」とは、
・限りある資源(石油、木炭など)を、使いまくって、代わりになるものをそこにまた戻しもせずに浪費すること(全てのものは「地球からの借り物である」という意識がない)、
・経済摩擦やいろんな人間社会・文明ならではの理由で不当に生物を殺しまくったり
食べ物を捨てまくったり
・必要以上に動物を殺しておいて、全て食べるわけでもなく我儘に捨てたり、とにかく「必要最低限の暮らし」には目もくれない贅沢で人間の快適さだけを追った暮らし。)

だから、私は、修道女や禅と同じように、「生(生きる事)そのもの」を否定してるんじゃない。
生があっても清貧な暮らしができるものならば、それは最高に素晴らしいと思う。いや、むしろそれが当たり前で、人間はそうすべきであり、それができない私は、悪人なのだ、、、。

質素で清貧な暮らしに憧れる。そうすることができた自分は理想通りであり、もしそうできたらこんな罪悪感を感じず美しく生きることができるんだろうな・・・と思う。

でも、そうでもなくて、むしろ、余計に罪悪感でいっぱいになる…って話も聞いたことがあります。 かつて修道女だった方に。
それはどうしてか。清貧な暮らしをしていると、ますます感覚が研ぎ澄まされて、いろんなものごとにすごく敏感になってしまうからなんだって。
・・・・それも、納得できるなぁ・・・。

なんて、一人で考えてるといつもぐちゃぐちゃしてくるのです。