6 なんで植物はいいの?−2−

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http://d.hatena.ne.jp/asakoo/20050723の続きです)
ここに関しては多くの方が関心を持っていることであるので、一部、インターネットや本の文書を引用しながらもう一度書きとめたいと思います。

●なんで植物ならいいの?

植物にも生命があります。感情もあります。愛情をかければそれなりに育ち、憎しみを込めて育てた花はすぐ枯れると言う報告もあります。
でも、あなたはリンゴをもぐように、鶏の首をしめあげて殺せますか?その二つの行為は、あなたにとってまったく同じですか? 「まったく同じ」とお答えになる方は、屠殺場で、実際の「殺し」を自ら体験し、自信をもって肉食を続けられることをお勧め致します。私の場合は、トマトをもぎとる気分で鳥を殺せません。稲を刈る気分で牛を殺せません ほうれん草を引っこ抜く気分でブタを殺せません。

あるデータから分かったことですが、動物愛護的な理由で菜食をしたと言うと 肉食する人にとって7〜9割の人が、 「なんか責められているみたい」など、不快に思うようです。

それで肉食の理由としてくるしまぎれに 植物だって生きてるよ!などと屁理屈をこねるしか逃げ道がないのだと思われます。

そういう方には、飼い犬の死と、植木鉢のチューリップの死と一緒か? と尋ねるとどうなのでしょうか。こういうとたいていの場合、議論は口論へと泥沼化します。肉食者たちと議論をしても、彼らは議論に負けても菜食になる可能性はほとんどゼロですから、議論はさけて、本人が興味を持ってくるまで本心を話さないほうが懸命だなとこのごろ思うようになってきました。

しかし“気付き”はある日突然、その人に合ったいろんなカタチで現れてくると思います。(一生現れない人もいますが) 私は彼らにも、その日が来る事を静かに祈っているしかないなと思っています(^^)

●線引きしていることは差別?
誰もが、結局は線を引いていないわけではなく「人とそれ以外」の間に引いているわけですよね。私はその線が「人とそれ以外」の間にあるよりは「類人猿と微生物」あるいは「牛とリンゴ」の間のどこかにあるべきものと思っているわけです。 もちろん明確な線など引けないかもしれませんが、少なくともそれは牛や豚や鶏などの向こうにあるべきではないかと。

で、そういった線引きをする所から差別が生まれるんじゃないか?ということに関しても考えてみようと思います。差別という観点からいえば人間が動物に対してやってることは差別だとは思われませんか?

何度か引用させてもらっている「動物の解放」の著者、ピーター・シンガーは、実は動物の権利というよりもスピーシズム:種差別 に反対するという考え方をとっておられる方です。権利の問題と差別の問題というのも表裏一体という気はしますが。

この問題に対するすっきりした答えというのは存在しないでしょう。配慮する範囲の線というのもなかなか引きがたいということも認めます。しかし、すっきりした答えが見つからない、線が引きがたいということが今、人間が動物に対してやっていることをこのままでいいと肯定する理由には全くならないと思います。


●「シュールだ」とか、「まずは動物からだ」とか感情で言うだけで、理由がわからない

『牛の苦しみにもリンゴの苦しみにも違いはない』 というのなら殆どシュールだ。と思うのは私にとっては感情というより常識だという気がします。

皆様は牛の苦しみとリンゴの苦しみを同じように感じることができるのですか。それとも感じるかどうかは問題ではなくて生きているのだから同じだという理屈の方が大事なのですか。

●権利の問題
動物の権利という言葉が最初に使われたのは、200年程前のイギリスでのことらしいです。ただしその時この言葉はまじめな主張としてではなく、女性の権利運動をばかにするために使われたそうです。「女性に権利があるなんていう連中はそのうち動物にも権利があるなんて言い出すにちがいない。ばかげたことだ」というように。植物はどうなの、という意見はなんかこの話に似ているように私には思われます。

それは動物の権利と植物の権利をまとめて積極的に認めようという発想というよりは、両方をまとめて一緒くたに否定しようとする発想ではないでしょうか。

植物の権利という概念が真剣に検討されることがありえないと言うつもりはありません。ただ、もしそうなるならそれは動物の権利という概念が当り前のものになった時でしょう。女性の権利というものが当り前になった現代にようやく一部で動物の権利というものが真剣に考えられるようになってきたように。

「まず動物から」
というのは良い悪い以前に必然だと思います。リンゴの権利に対する合意ができたあとに牛の権利に対する合意が出来たりしないですよ。牡蛎と牛の順序だとしても同様でしょう。動物の権利運動が女性権利運動の先に来ることはなかった様に。本当に問題なのは順序よりも一歩をふみだすかどうかということではないのでしょうか。

もちろん明らかに苦しんでると思えるものから先に何とかしてあげたいとは思います。それは感情論といえば感情論です。でも感情論だからと無条件に否定されるべきものでしょうか。それが普遍的と言わずとも常識的な感情だとしたらどうですか。理由を言えとさかんに言われますが一体どういうものだったら納得されるのですか。何か数字のようなものだったら満足されるのですか。

私はこの問題を倫理的なものと考えていますが、別に頭の体操のために机上の倫理的問題として考えたいわけではありません。今の社会とは違う合意を、もっと動物に配慮する社会となるような合意を作りたいと思っているのです。そのために話しあう土台としてはやはり常識:つまり共有できる考え方に頼るしかないように思うのです。


●動物の権利は認めて植物の権利は認めないの?
 私が動物の権利は認めて植物の権利は認めないという事は「動物の権利を認めるべきかどうか」という議論には何の関係もないということです。

 もし動物の権利だけ認めて植物の権利は認めないのはおかしいとお考えなのでしたらフルータリアンになるなりなんなりして植物の権利も守ろうとする道を模索されたらいいのではないでしょうか。それはそれで素晴しいことだと思います(ただ、前にも書きましたが植物の権利のことを言う人が真剣に植物の事を心配しているとは思えませんが 自分ではっきりそう認めている人もおられましたし)

 「神経もなければ叫び声をあげることもないからと言って植物を殺しても良いと考えるのは間違っている」という意見には一理あるとしても、そこからどうやって「目に涙をうかべ死の恐怖におびえ痛みを感じる動物」を殺しても良いという話になるのですか?

 或いは、フルータリアンになったところでリンゴの権利を守れないからだめだとか言い出す人がいるかもしれません。しかしリンゴの実というのは放っておいても木から落ちて腐っていくものです。その権利をどうやって守るのでしょうか?(だんだんと議論が馬鹿馬鹿しいものになってきてる気がしますが)
 
 そういった議論をする人はひたすら今のままで仕方ないのだという結論を出す事だけをめざしているのではないでしょうか。「生き物の権利はみんな同じである」=>「しかし、すべての生き物の権利を守ることは不可能である」=>「だから、今のままで仕方がないのだ」と持って行きたいだけではないのですか。

 あるいは私が動物の権利のことばかり言うのが、「気にくわない」というのが実情かもしれません。「気にくわないやつが言うことなど聞く気になれない」と言うことなのかもしれません。でもそれならそれはもうただの感情論で議論の対象にはなり得ません。

 そうは言ってもその「気にくわない」と言う気持はまるで分からないでもありません。多分それは日本にはもともと「生きとし生けるものを慈しみなさい」と言う仏教的精神の土壌があるためではないかと思います。西欧の場合にはそうした精神的土壌がないから、例えば痛みを基準に線引きをするといったある意味、合理的な考え方にそれ程、抵抗を感じないという面があるとは思います。

 しかし、もともとの「生きとし生けるものを慈しみなさい」という教えが(それ自体は素晴しいものだと私も思います)「生きているものはみんな同じだ」=>「だから、結局どうしようもないのだ」と曲げられて現実の動物の虐待を正当化する理屈に使われるとすればそれは随分、おかしな話だと思います。

 日本人はそうした仏教的精神土壌もあって江戸時代までは肉をほとんど食べていませんでした。明治時代になってから文明開化だの西洋にならえだのと明治天皇自ら率先してこぞって肉を食べるようになってしまったのです。そして肉食に反対する考え方が西洋から入って来たときには西洋にはならわずに「仏教的精神土壌」を根拠に肉を食べ続けようとするのでしょうか。変なもんですね。でも自分でこんな事をやっていて言うのもなんですが「動物の権利」という考え方を日本に根付かせるのは大変難しいでしょう。

 そもそも「権利」という概念自体が西洋から輸入されたものです。私は「人間の権利(人権)」というものさえ日本に本当に根付いているのか極めて疑問に思っています。

 もし根付いているのだったらどうして、「無理心中が後を絶たないのか」「通学中の児童にヘルメットをかぶる様に強制したりするのか」「君が代の伴奏を拒否した教師が処分されなければならないのか」「サービス残業の様な慣行が当り前の様に行われているのか」(他にもいくらでもありますが)・・疑問です。
 

 「人間の権利」も分かっていない様な国で「動物の権利」を説いたって無理というものかなと思う事もあります。日本で肉食を減らすという事に関して実質的成果をあげる事を重視するのなら動物の権利の話などは出さずにひたすら健康面の話をした方がいいのかもしれません。

みのもんたが肉を食べるなら週に一回か二回までにしておきなさい:と 言ってたぞおー」とか(ちなみにこれは本当にそう言ってました)でもそいつぁ、なんだか、とほほな話です。


●命を奪っていることは「客観的事実」かもしれませんが、植物も動物も細菌も命を奪うかぎり同じだというのはやはり、一つの主観に過ぎないのではないでしょうか。

別に私は自分の意見こそが客観的だと言うつもりはありません。倫理的問題に対する客観的な答えなどどうしたところで無理なものだと思います。


結局、目指すのは何らかの合意を形成することなのではないのでしょうか。奴隷制度はやめようという合意を作っていったように。まあその過程で戦争なんかもしてるわけですが。

●植物にも心があるとしたら、どう考えるのか
シンガーは動物に心があるから肉食はやめるべきだと言っているのではなくて「快苦を感じる能力があるから、苦痛を与えるべきでない」としています。 これに対しては、あなたのように、「仮に、植物にも苦しむ能力があるとすれば、植物も食えないのか」という質問をシンガーにした人がいます。シンガーはこう言っています「もしも我々が苦痛を与えるか、あるいは、自ら餓死するか、いずれかでなければならないとすれば、結果として生じる悪が少ないほうを選ばなければならないだろう。おそらく、植物の方が動物よりも苦しむことが少ないということは依然として真実であろうから、従って、やはり動物を食べるよりは植物を食べるほうが良いということになるだろう」このシンガーの回答に対して、マイケル・A・フォックスは次のように批判しています。「もしも人間がこの種の(絶対的な)生きる権利を持ち、「生じる悪が少ないほうを選ぶ」ことが許されるなら、人間は結局のところ人間以外のあらゆる自然に対して「道徳的優位」に立つことになる」確かに、シンガーの回答からはフォックスのような批判があるのは無理もないと思います。

他の批判としては、「動物に苦痛を与えさえしなければ肉食はいいのか(例えば、無痛で屠殺するとか・動物にとって苦しみのない環境で育てる)」というのがありますが、それは本当に苦しみの無い環境を用意することができるのかという実現可能性の観点、また経営における経済的な観点からも現実的ではないと思います。

なお、シンガーの思想の流れを受け継いだトム・レーガンも菜食主義や動物の権利についていろいろ述べていますが、いずれもシンガーより過激です。「たとえ、ある行為で動物が失う利益よりも人間にもたらされる利益が大きいからといって、それに対する道徳的非難が無効になることはない」、つまり、動物の利益も人間の利益と同等に考慮されなければならない、というのです。しかし、シンガー、レーガンが動物の権利を擁護する上で共に用いている功利主義は“人間の利益”“動物の利益”を想定して利益・幸福の総量を求める際に幸福を計量し、比較しようとしていますが、これは明らかに不可能であり、彼らの論の土台が不安定であることをうかがわせていると思います。(しかし、現状の畜産動物のあり方が私たちの倫理観を満足させない、という点については未だに真です)

飢餓状態の人々に穀物を回せるならばどんな方法が可能か、そもそも可能か。難しい問題だと思います。穀物があることが飢餓・栄養不足状態の人々に穀物をまわすための最低条件ではあるものの、かつて、穀物が過剰だった時にも飢餓・栄養不足状態の人々が沢山いました。これを解決するには、貧しい国が穀物の余っている国から穀物を買えないという貧困の問題や、貧困をもたらす様々な問題群(内戦・元植民地・政治体制・環境問題・女性問題etc…)を解決することも大切だと思います。方法としては、過剰に穀物を持っている国が持っていない国に援助する、NGOが援助する、穀物がない国が穀物のある国から穀物を買えるようなお金を生み出せるような方法を見出す、ということが考えられます。

食物連鎖や動物的本能を考えると、肉食は仕方のないことである

問題を単純化しないほうが良いと思います。今まで倫理がどのように形成されてきたのかを考えてみると、我々は力だけに拠らない仕組みを作ろうとしてきたといえるのではないでしょうか。先人達によって、力のある者が食糧から身体までを支配するような“力の論理に基づく政治”を乗り越えようと努力がなされてきましたし、今もなされているのではないかと思います。そして、マネーを力とする社会にも嫌悪感を覚える人は多いと思います。敷衍して考えてみたとき、我々が食物連鎖の上位に位置するからといって、力があるからといって、動物を支配することが倫理的に正しいとされるでしょうか。また、我々は本能的な行動を非難することがある(例えば、闘争本能、行過ぎた性本能など)一方、都合の良いときだけ本能に基づいてその行動を善しとすることは一貫性がないように思われます。

●肉食をやめる・減らすことはただ単に自己の倫理観を満足させるだけの単なる“おりこうさん”ではないのか。
単に肉食をやめる・減らすだけでは“おりこうさん”に過ぎないかもしれません。肉消費の削減によって実際に畜産動物の数が減るという効果はもちろんありますが、肉食をやめる・減らすことは一種の不買運動としてメッセージ性の強いものであるべきだと思います。自己の倫理観を満足させるだけでは世の中に変化を起こすことは期待できず、変化を待っているだけにとどまると考えるからです。したがい、求められる肉食をやめる・減らすあり方としては、微力ながらも世の中に変化を与えようという意識のもとに行動することであり、この姿勢を他の人にも伝えようとすることではないかと思います。

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参考文献
書籍
ピーター・シンガー、動物の解放、技術と人間、1988
ローレンス・プリングル、動物に権利はあるか、NHK出版、1995
シュレーダー・フレチェット、環境の倫理(上)、晃洋書房、1993
荏開津典生、「飢餓」と「飽食」、講談社、1994
ライマン、ハワード・F、まだ、肉を食べているのですか、三交社、2002
新田孝彦、倫理学の視座、世界思想社、2001
スーザン・ジョージ、なぜ世界の半分が飢えるのか、朝日新聞社1984
加藤尚武 編、環境と倫理、有斐閣、1998
Web
(社)日本中央畜産会、畜産ZOO鑑、http://group.lin.go.jp/data/zookan/kototen/