●動物はダメで、どうして植物はいいのか。

asakoo0200-04-05


よく思うけど、肉食の人が「植物だって生きてるよ、動物が殺されてかわいそうなら、植物も殺されたらかわいそうなんじゃないの、」と言うけど、あなたが植物が殺されてかわいそうだと思うんだったら、どうして植物を食べるの?私は動物が殺されるのは痛いからかわいそうだと思う。そして植物も同じように殺すのはかわいそうだと思う。だけど、植物には痛点がない。だから、植物を食べる方が、肉を食べるよりも、我が身における精神衛生上の問題が少なくて済むのです。言い訳かもしれないけど、こうしないと食べられるものがありません。


あなたの横に、殺人を犯した人がいるとします。あなたはどういう目で彼のことを見るでしょうか。
少々過激な発言になるであろうことを懸念しますが、普通の人が、殺人者が嫌われるのが真っ当なことだと言うのなら 菜食の人が、肉食者を嫌うのも真っ当なことだと言ってもいいのではないでしょうか。

殺人に嫌悪感を覚える精神は一般的に正常だと見なされます。でも、どうして、食肉をよく思わない人たちは異常だと言わんばかりに偏見に満ちた目で見られなくてはいけないのでしょうか。生きにくいです。とても。

人を殺すのが嫌なのは、そしてその肉を食べるのがいやなのは、自分も人だから。
私が動物を殺すのが嫌なのは、そしてその肉を食べるのが嫌なのは、自分も動物だから。
カニバリズムいけないことだ、ということと
肉食がいけないことだ、ということに、そんなに隔たりはないのかもしれません。



これって理論でどうのって言うよりも、感覚が先かもしれません。ベジタリアンであることも、感覚なんです。そいういうベジタリアンって多いんじゃないでしょうか。





繰り返し、繰り返し出てくる指摘に「どうして動物の事ばかり言うのだ?どうして植物はどうでもいいのだ」と言うようなものがあります。

 正直言って、私はこの意見にはほとほとうんざりしているんですが今までの答えでちゃんと相手が納得してなかったように思うし、ちょっと思うところもあるので、ここらで少しまとめて書いてみたいと思います。


 その質問に対して私はおおむね「牛とリンゴを同列に置くなんて無茶だ」という答え方をしてきました。

 私は(というより動物の権利運動の考え方の主流ですが)権利を認めるかどうかという基準を苦痛の有無とするので牛の明らかな苦痛とリンゴの苦痛(そんなものが存在するのかどうか極めて疑わしいとは思いますが)を同列に置くのは馬鹿げていると考えるわけです。

 牛が苦しんでると本当に分かるのかという人もいました。でも犬や猫などを飼ったことのある人だったら動物が痛みも感じるし豊かな感情を持つ存在である事は常識的判断として分かるのではないかと思います(もちろん科学的に言えば牛の神経系とリンゴの神経系(?)は明らかに違うという事も言えるでしょう)

 動物の苦しみなんて本当の事は分からないのではないかという意見に対しては、「他人の苦しみだってつきつめれば本当のところは分からないのではないでしょうか? 分からないから他人の権利なんて尊重する必要はないと思いますか?」と答えます。

 つきつめれば私達の感覚なんて当てにならないものだとは言えるでしょう。でもそうは言ってられないから、とりあえず私達は常識的判断に基づいて生活しているわけです。

「あっちからトラックが走ってくる様に見える。しかし、あのトラックは本当に実在しているのだろうか。私の脳が作り出した幻覚ではないとどうやって証明するのか。いや、それ以前にそもそも私は本当に今、この場所に存在しているのだろうか?」などといちいち考えこんでいたら本当にトラックにはねられてしまいますから私達はトラックが来たと思ったらさっさとよけるわけです。

そうやって私達は生活を成り立たせているのです。何故、動物の権利の問題を考える時に限って執拗に常識的判断を無視したがるのでしょうか。

    動物に権利を認めようだなんて偽善的じゃないんですか?なぜなら例えばあなた方は昆虫や植物の権利は認めようとしないですよね?

偽善に関する議論は色々な形で出てきます。典型的な形としては以下の様なものです。

    「牛には権利を認めて植物には権利を認めないのは偽善である;それゆえに牛の権利は認められない」

  この様な種類の議論はしばしば動物の権利に対する反論に使われます。ほんの少し分析してみればこの意見にほとんど説得力がないことが分かります。

   まず第一に、ある人がAという意見をBという意見とともに出してきたとします。もしBの意見が間違っていたならその人は偽善的と言えるかもしれません。しかしBの意見が間違っている事は必ずしもAの意見も間違っているという事を意味しません。AとBが両方正しいかどうかという事は確かに個人の信用にはかかわる問題でしょう。でもAの意見自体の妥当性には何の関係もありません。

    次に偽善という言葉自体があてはまるか疑わしいという点があります。上記の例で言えば牛と植物の間には両者を区別する根拠があります(植物は中枢神経を持っていません)従って偽善だという非難は 正当なものではありません。そうした基準に賛同しない人もいるかもしれませんが基準が存在している事は偽善だという非難を無効なものにします。(*1)

 更に偽善的だとの非難は大抵の場合、単なるスピーシズム(種差別)が形を変えただけのものだと指摘することが出来ます。例えば上記の例はこの様に変えることができます。

    「人間には権利を認めて植物には権利を認めないのは偽善である;それゆえに人間の権利は認められない」

  動物の権利に反対する人達が冒頭の論拠を議論倒れにしたくないというのであれば人間と牛の間に何か本質的意味のある違いを見つけ出して来る必要があるでしょう。別の言葉で言うと人間の権利は認めるが牛の権利は認めないという種差別的な格付けを正当化する必要があります。


 最後に私達は誰が本当の偽善者かという事を自らに問いかけてみなければなりません。下記のマイケル・W・フォックスの文章は搾取される動物とペットとの扱いの違いがどんなに偽善的なものかについて述べています。


    家畜は60センチ四方のケージに5羽も詰め込められたり(*2)、60センチしかない鎖につなぎっぱなしにされたり、麻酔もなしに去勢されたり、熱い鉄で焼き印押されたりしている。ペットの飼い主がペットをこんな目に合わせたら罪を問われる事になるであろう(*3);実際、あるアメリカの大統領は単に彼の2匹のビーグル犬の耳を引っぱったとして道徳的に非難された事がある。

      マイケル・W・フォックス(合衆国動物愛護協会 副会長)

  

  • *1. この議論は少し分かりにくいかもしれないので私の考えですが少し補足します。偽善とは基本的に同じ対象に対する態度の違いのことです。思っていることと口に出すことが違ったり、こっちでやることとあっちでやる事が違ったりする場合です。例えば人に肉を食べるべきじゃないと言いながら自分が食べていたとしたらそれは偽善です。しかし対象が違うのであれば、もはやそこには偽善の定義はあてはまらないという事でしょう。
  • *2. これは鶏のことです。
  • *3. これはアメリカの話でしょう。日本にはザル法しかありません。