1 完璧なベジじゃない理由

これから、菜食に対する周りの人の反応や非難を含む意見などを考慮に入れながら私の考えるところをつづっていこうと思います。


これを読んで菜食に対する疑問が解消されればいいなぁーと思います。ついでに偏見もなくなってくれたらいいなぁ。

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●『肉を食べる=動物虐待というように考えることには理解に苦しみます』という考えも分かります。

ベジタリアンにもいろいろありますが、動物愛護から肉を食べないというのであれば、きっとそれは虐待の日々、挙句の死を迎える動物を減らしたい、もし自分が食べなければその分だけでも減るから・・・ではないでしょうか。

●完璧なベジじゃない理由
私が完璧なベジタリアンではないのは、ひとつは円滑な人間関係のため、またもうひとつは自分が食べなければ捨てられてしまう「生命」のことを思うと食べる方を選択するからです。その生命が食べられることによって殺されたならば、私には捨てることはできません。もちろんできるだけそういう状況は避けるようにしています。

●なんで菜食なの?

asakoo2005-04-01

なんか、思うままにつらつらと書いてまとまりがないようなので一度、まとめてみたいと思います。

一 なぜ菜食か

若い子(というか同年代…)の肉好きが不思議です。「焼肉食べに行こう」は人が喜ぶ代名詞みたいに言われているし、彼らが言うには、なぜか分からないけど時々無性に肉が食べたくなったりもするそうです。肉を食べないとイライラする、というのも聞いたことがあります。恐らくそれが普通なのでしょう。私の家族も普通に肉を食べます。私は一般的な家庭、一般的な環境で育ったと思うのですが、なぜ家族でも私一人がそうなってしまったのでしょうか。

 まず菜食の考えを持つきっかけとなったのは、動物愛護の観点からです。それは高校時代の馬術部での経験が大きく関わっているような気がします。馬に乗るだけでなく部員には馬の世話も大きな役割だったので、休日にも持ち回りで厩舎に通い、ボロ取り(フン拾い)やチップ換え(馬のお部屋にしきつめているおが屑を取り替える)、シャンプー、時には怪我の看病などもありました。(と言っても看病なんかは学生に任されるのはそうそうないですが。)彼等はブラッシングすると気持ち良さそうな顔をし、ひっかかってひっぱったら痛いと言って怒るし、人間が後ろに回ると恐がったり、下手な人がぐずぐず乗ってると嫌そうな顔して落とそうとしたりなど、私たちと同じように感情豊かです。私たちにとって馬はとても身近な存在で、愛情をもって接していました。そして、そのような馬を食べられなくなった事に端を発し、牛や豚に展開していきました。そして、菜食の実践は、親元を離れすべて自分の食事は自分で用意するようになったことで可能となりました。

 また、以前から関心のあった地球環境問題の視点からも肉食の及ぼす悪影響は甚大であることを知るなど、勉強するにつれ次第に菜食に対しての考え方はしっかりとしてきました。そうは言っても、まだまだ、知らないことがたくさんあります。私は今大学院生で、自分の研究はこれとは別のところにあるのですが、正直なところ、動物とか菜食とかについて勉強したり考えたりすることが、今、私の一番したいことです。そういうこともあって、ここで書くような思想についてはなかなか表立っては言えません。

 人が肉を食べるのは、まずそれがおいしいからというのがあります。私もそれは実感として分かります。また、家庭や学校では半強制的に肉を食べさせられ、大人になります。では、なぜ動物を食べることに疑問を抱くことなく笑顔で食べられるのでしょうか。

 それにはまず、日本に肉食の文化をもたらした欧米のキリスト教の考え方があります。「人間は神の像の通りに造られ、地上を支配する使命を帯びて造られた存在だが、動物は、人間によって支配され、食糧にされてよい」という教えです。(「肉食の思想」鯖田 豊之著 中公新書(欧米の肉食習慣の自然的、歴史的、社会的分析))

 次にデカルトの思想です。懐疑の結果たどり着いた「我思う。ゆえに我あり。」という彼の哲学の第一原理で説かれる「我」は、魂と同義語です。人間の体も、動物の体も精密な機械である点は似ているが、人間は魂を持っているのに反して、動物は魂を持っていない。そして、意識や感覚の主体は魂なので、動物は意識も感覚も持たない、たんなる精密機械に過ぎない。だから、動物は苦痛を感じない。と彼は考え、この考えによって人は肉食への罪悪感は払拭されるだろうと言っています。

 現代に生きる私たちの知識では、キリスト教デカルトも、その動物観については明らかに事実に反している事は知っています。しかし、現代人が抱いている動物観の根底には、本質的には、これらの思想と同じように、人間と動物の間には断絶的な価値の差があり、その苦痛も顧慮するに値しないという価値判断が働いていて、肉食は許されるという暗黙の了解があるのでしょう。

二 肉食の弊害と菜食

簡単に3つ挙げるとすると、
1、肉食によるエネルギーの膨大なる無駄
2、温暖化と森林破壊
3、動物たちの苦痛          があります。

  1. 簡単に言うと家畜にトウモロコシ等を食べさせてその家畜を食べるより、直接トウモロコシを食べた方がエネルギーの節約になる、ということです。牛肉に含まれる1kgのタンパク質を得るのには、大豆に含まれる18kgのタンパク質が必要です。これは単純に考えて18倍のエネルギーを無駄にしていることになります。日本において、家畜に与えている穀物の量は日本人が生きていくために必要な穀物量の倍量です。それだけの穀物を、肉食べたさのために無駄にしていると言えるでしょう。しかも家畜用穀物は全て輸入です。これを世界の飢えで苦しんでいる人たちに渡すことができたらどんなに救われるでしょうか。
  1. 家畜の出すメタンガスは温暖化の要因となっており、アメリカでは牧畜が水質汚染の第一の原因となっています。
  1. 牛も豚も鶏も、家畜動物たちは、一生を暗く狭く密閉された檻の中に閉じ込められ、心身を病んでいます。その解決法は、動物舎を改善することではなく、絶え間なくホルモン剤、食欲増進剤、殺虫剤、抗生物質などを投与し体を薬漬けにすることです。ストレスによる尻尾の噛み合いを防止するために、歯と尻尾を切り落とされる子豚、ひなのうちに嘴を切断される鶏。牛も豚も肉質を柔らかくするために麻酔なしで去勢されます。屠殺場へ行く動物たちはそれは嫌がって叫び声をあげたり逃げ出そうとするそうです。動物たちは誕生から死まで、苦痛に満ちた短い生涯を強いられています。食肉は大量繁殖の為に100%人口授精させられています。最近は、利潤追及をめざすクローン動物の研究など、遺伝子レベルでの生命の改変が進められています。生命としての全ての尊厳が奪われ、商品としてしか扱われていないのです。あまりにもむごい現実です。

 動物を食べる人はこれらのような事実を知っているのでしょうか。食卓あるいはスーパーに置かれたきれいな肉と、生きていて感情も持っている動物たちとを、同じだと認識しているのでしょうか。知らないだけか、あるいは分かってて目をつぶっているのでしょうか。

三 周りへの呼びかけと、現実

 私は、環境問題や肉食への意識の如何は、往往にして知識の問題だと思い、現実を知らせ、打開策を打ち出せば人の意識は変わると考えていました。身近な人からと、地道に友達や知り合いに話したりしていました。また生協に頼み、生協発行の冊子に環境ページを連載させてもらったりなどとしてました。説明は分かりやすさを心がけ、本当に些細なことを提案してきました。しかし、そうやって呼びかけたりいくら熱く語ってみても、意外なほど反響もなく、またその後の人たちを見ても影響は殆どと言っていいほど見られませんでした。悲しいことに私の期待は無惨にも崩れ去ってしまったのでした。

 人は生きてきた過程が全く違うから、同じ気持ちになることはありえません。みんな違う、そのことは分かっています。また私もあまりえらそうなこと言えるような人間でもなく、私が余暇に楽しんでいる趣味も、極力気を遣っているつもりではいても所詮”つもり”であって、地球に悪い影響を与えていることは事実です。それどころか、そもそも生きるためだけの最低限のもので暮らせればいいと思ってもそうする勇気もなく、趣味のものにお金を使ったり、甘いものも大好きで無駄に食べてしまったりもしています。それなのに、日常の中の節々で、動物が、地球が、かわいそうと感じ辛く思っている自分は偽善者なのかとも思います。

 こういうことに罪悪感を感じるのも、自分が生きているから、それも先進国に生きているから、出来ることです。先進国のせいではあるけど、その罪は先進国の人がかぶるべきだと思います。自分の親たちが築いてくれた暮らしやすい生活の、陽の部分だけでなく陰の部分も引き継ぐことは、楽に暮らしている自分たちの義務だと思います。途上国の人は環境問題はおろか絵を描くことすら、余裕がないですから。


 しかし、先日、真面目に話していて、私の言うことは所詮きれいごとである、自己満足なだけであると、批判されることがありました。熱くなっている人はその他のことに目を向けられないで一義的にしか考えられない子供だとも言われました。私の提案・呼びかけは、相手のことを思い遣ってない、全く自分勝手な押し付けだと。そういうのは自己満足なんだから、自分の中だけで思ってるに留めなさい、人に強く言ったりするのはだめ、人に対する思いやりや配慮が足りないよ、と。私の行いは私の為にしかなっておらず全く動物や自然の為にはなっていなかったのでしょうか。そう考えるととても辛く、やりきれない思いでいっぱいになりました。

 具体的には冊子には「自然に親しむためのキャンプで使い捨て容器を使って、自然を汚して、これに対してどう思いますか」「家庭排水の汚染(しょうゆをこれだけ流すと魚が棲める清水にするのにこれだけの清水が必要)」「割り箸は間伐材皆伐材とがあって、間伐材はいいが皆伐材にはこんなよくないことが!」「洋服など繊維もリサイクルできる、捨てないで」などなど、小学生にも読めるくらい簡単な表現を心がけて、このようなことを書いてました。身近な人にも、このような身の回りの小さなことを言ってきました。それはよくないことだったのでしょうか。私の思想を押し付けていたことなのでしょうか。私としては、「ポイ捨てやめよう」という看板と同じレベルだと思ってやっていました。「ポイ捨てはやめて」と言われて、「そんなこと言わないで。貴方の考えを押し付けないで。」と憤慨する人はいるでしょうか。まずいないでしょう。ポイ捨てがいけないということは皆分かっているからです。それなら、どうして「しょうゆを出しすぎないで」というのはダメなのでしょう。どちらも環境負荷がある、という点では同じです。その境界線は一体どこにあるのでしょうか。その主張がただ市民権が得てないからというだけではないのでしょうか。

 問題の最も効果的かつ確実な解決となるのは「人間への」でなく「地球(動物)への」感情(思いやり)や罪の意識だと思います。それがないと根本解決にはなりません。ですがそういった、「思想」は、ある意味宗教的です。それならば全員にそれを期待することは結局は無理なことだと諦める他はないのでしょうか。

 私の思いは自分の中だけに留め、人には要請しない、一人で悩み続けなければいけない、ことなのでしょうか。でも、この問題ばかりは、自分だけではどうにもならないことなのです。周りの協力あってのことです。一人より二人、二人より…そうやって、例えば醤油は余分に出さないようにするとか、小さな小さな行動だとしても、学校の人全員でも、小さな行動は大きな行動になります。私一人しかこれをやっていなかったら、努力空しくやっぱり地球にとっては何にも変わりません。

 批判され、その内容に納得できる部分もありました。私の考えも、まだ迷いもあり発展途上です。いっそ諦めてしまい、こんなこと考えずにすめばどんなにか楽でしょう。けれど、これは思想とか、自分の心の中だけで、とか、どうしてもそういうレベルの問題には思えないのです。理想の実現は不可能とあきらめて何もしないよりも、どれほど小さいことでもよいから自分にできることから始めることのほうが、はるかに価値のあることだと思います。人には快適に生活していくうえで譲れないところもできないこともあるだろうけれど、先進国に生まれた私たちはその中でも自分のできることを探して、小さなことでもやっていこうとしなければならないと思います。

こんなこと書いてたら嫌われそうですね。現実世界では滅多に言いません。だからここでこうやってひっそり頭の中のこと書くことにしたのでした。

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参考文献
1)「食の思想」鯖田 豊之著 中公新書
2) 「地球生物会議 (ALIVE)」  http://www.jca.ax.apc.org/alive/index.html
3) 「動物実験を考える」 野上 ふさ子著 三一書房
4) 「ベジタリアンの健康学」 蒲原 聖可著 丸善ライブラリー
(医学的、栄養学的にみたベジタリアンフードの勧めについて書かれています。とても面白いです)
5) 「BONVENON,SALUTON KAJ DANKON」  http://www3.vc-net.ne.jp/~kubu/ 
エスペラント語のページ)

●死体の晩餐

asakoo2005-03-31

動物が大好きな友達に、とてもいい本を教えてもらいました。その本と紹介の文を少し引用しながら私の思いも書き留めておこっと。

捨てられる猫たち

いじめられて傷つけられて、それでも必死に生きてる野良猫が大勢います。

名前を呼ばれたこともなく、誰にも存在すら知られず、保健所でゴミのように殺される子たちも、年間に何十万匹といます。そんな子たちにせめて何かをしてあげたくて、必死で救助活動している人間も、います。

キリがない、と感じたことはありませんか?いくら助けても、あとからあとから野良猫はわいてきます。
みんな緊急です。みんな今すぐの助けを求めてます。

だけどわたしたちには体も時間もひとつしかなく、全員をすぐに助けてあげることはできません。

もっと抜本的な解決策が必要だ、と感じたことはないですか?たとえば野良猫をいじめたら巨額の罰金がかかるような国になったらいいなぁ、なんて夢想することはないですか?


この本は、そんな感覚を、理論で肯定する本です。

ロサンゼルスでは、捨てられる犬猫の数は日本と大差ありません。なのに保健所で殺される数は、日本の10%以下です。

しっかりした法律があり、国や民間のシェルターが完備され、ボランティアの人々が気持ちよく働ける環境があるからです。行政が救助システムを作っています。

犬猫を飼いたい人はペットショップでなくシェルターへ行きます。シェルターの存在をみんなが知っているので、企業も活動資金を出してくれます。誰でも気軽に空き時間を利用して、ボランティアに参加できます。



ドイツでは、憲法で動物の権利をうたっています。動物の生きる権利、動物が苦しまない権利が、憲法で保証されています。憲法に動物権利がうたわれている国は、世界中でドイツだけです。

ドイツ人は動物保護や動物権利について、十分な意識をもっています。そのため既にたくさんのドイツ人は菜食主義者となっていますが、若い世代ほど、この割合が高くなっています。



日本でも、おそらくはみんな、本当は知っているんだと思います。あなたの食卓で刻まれている食肉が、もとは生きている牛や豚だったこと。あなたの膝で丸くなっている猫と同じ、柔らかで優しい、命だったこと。

なのにその牛も豚も、生まれたときから母親からも引き離され、風を感じたことなど一度もなく、工場のベルトコンベアに乗せられ、お金がかかるという理由でろくに麻酔も打たれず、殴られ、殺されるのを察知しイヤだともがき、悲鳴をあげ、生きたまま解体され、地獄を味わってきたこと。



もとはドイツも、日本のような状態でした。そこへこの本が現れ、そしてベストセラーとなりました。現在では古典的な意義をもっています。この本により動物にも人間とおなじ権利を与えるべきだという運動が高まり、ついには憲法までもが変わりました。

1999年、ドイツの動物倫理団体はドイツの全ての国会議員に「死体の晩餐」をクリスマスプレゼントとして渡したそうです。そしてそのことが、動物が憲法に入ることのきかけとなりました。

日本の議員たちに渡したらどうなるでしょうか。



「死体の晩餐」は、動物のための活動の、バイブルになる本です。菜食主義と動物の権利運動を、やさしく物語っています。虐待や捨て子をする人たちへ、理論武装して立ち向かえるようになります。この日本語版の出版によって、日本でも動物倫理への問題意識が高まっていったら、と思います。できるだけ多くの人に読んでもらいたいです。



あなたは、答えられますか?遊びで猫をいじめて喜ぶ人間たちへ、なぜ猫をいじめてはいけないか、説明できますか?
「たかが猫だろ」
なんて言われて、悔しい思いをしたこと、ないですか?



地球は人間だけのものではありません。便利なら、美味しいなら、自分さえよければ、という意識が地球をここまで破壊しました。


私たちはこのままでいいのでしょうか。一度にすべてを変えることはできません。でも、まずは隣で苦しんでいる動物たちのことを考えてみませんか。
生きることすら許されない動物たちへ、せめて、命を返してあげませんか。

●清貧な暮らしができないことへの罪悪感

聖にゃじ

清貧な暮らし。

そのへんでは大学の指導教官の先生とも共感したところです。
「でも、そういう暮らしをすることに幸せと喜びを感じて生きている修道女は、恵みがあって、私はそういうのじゃないから、できないと思った。」と先生は語ってくださった。

つまり、そういう暮らしができるのもまた天性のもの、ということらしい。(多くの人が思うように、そんな暮らしをしてたら人生が楽しめない、もったいない、とかそういうんじゃなくて。)

「恵み」、それがあるかないかの違いなんだって。
そっかー。そういう考えもあるのかぁ。それは考えたことなかったな。

でもそう考えると楽かもしんない。
「自分はそういうことできないから悪だ」って思うんじゃなくて、例えば「私はイチローみたいに野球の才能があるわけでもないし、吉川ひなのちゃんみたいに綺麗でもなければaikoみたいに歌がうまくもない、はたまたピカソみたいに絵の才能があるわけでもない。それは、それぞれの才能なんだ。でも、私には私のよさがある。」そういう風に自分に納得すること、かなぁ。

罪悪感。

先生も、これはあるとのこと。ただ私はそれが環境に向かってて、先生は人に向かってるってことなのかもしれない。

私は自分も人間でありながら悲しいけど、誤解を恐れずに言うならば人間に嫌悪感を感じている。人間は欲深く、汚い悪だと思ってる。だから人間には優しくできないんだと思うんだ。砂漠に木を植える活動とか海を綺麗にする活動などは共感するし自分もしたいと思うけど、老人ホームでボランティアとか介護施設で…とかは、あまり思わない。だって人間が生きてるから地球を壊してるんだよ?悪人なんだよ?(ただ、高校生のときはあまり深く考えずによかれと思ってそういう奉仕活動をやっていた)

そう思うから、人間の命を増やそうとも延ばそうと思うことにも消極的になってしまう。こんな、自分の快適さばかりを追い求めて欲まみれの人間なんて生き物はいなくなっちゃえばいいのに。そうすれば地球は助かるのに。。。そうしたら地球に笑顔が戻るよ。(もう手遅れじゃなきゃいいけど…。)ただ、人間である自分がこういうことを言うのは偽善的で憚られるものだろうか。人として異常なんでしょうか。ここで、いつも立ち止まってしまうのだ。

人間たちとは反対に、環境や動物って、すっごい綺麗だよね。一見、動物たちが何かを無駄にしてるように見えることがあっても、自然界はうまくできててちゃんとほかの誰かが処理して…っていうふうに循環してるんだよね。彼らは純粋で、欲はあったとしても最小限でしょ。彼等はそうは思ってないんだけど、そういうの、すごく素敵だと思う。人間もそんなふうに綺麗に暮らすことができたら、私は、自分を含め人間を嫌うことはなかったんだ。

(私が指す「人間の汚さ」とは、
・限りある資源(石油、木炭など)を、使いまくって、代わりになるものをそこにまた戻しもせずに浪費すること(全てのものは「地球からの借り物である」という意識がない)、
・経済摩擦やいろんな人間社会・文明ならではの理由で不当に生物を殺しまくったり
食べ物を捨てまくったり
・必要以上に動物を殺しておいて、全て食べるわけでもなく我儘に捨てたり、とにかく「必要最低限の暮らし」には目もくれない贅沢で人間の快適さだけを追った暮らし。)

だから、私は、修道女や禅と同じように、「生(生きる事)そのもの」を否定してるんじゃない。
生があっても清貧な暮らしができるものならば、それは最高に素晴らしいと思う。いや、むしろそれが当たり前で、人間はそうすべきであり、それができない私は、悪人なのだ、、、。

質素で清貧な暮らしに憧れる。そうすることができた自分は理想通りであり、もしそうできたらこんな罪悪感を感じず美しく生きることができるんだろうな・・・と思う。

でも、そうでもなくて、むしろ、余計に罪悪感でいっぱいになる…って話も聞いたことがあります。 かつて修道女だった方に。
それはどうしてか。清貧な暮らしをしていると、ますます感覚が研ぎ澄まされて、いろんなものごとにすごく敏感になってしまうからなんだって。
・・・・それも、納得できるなぁ・・・。

なんて、一人で考えてるといつもぐちゃぐちゃしてくるのです。

●先生との、環境の話での衝突

木登りにゃじさん

堀先生と話していて思ったこと。

堀先生はある意味では悟ってらっしゃり、私たちとはかなり違う考えをお持ちです。それゆえ、考えさせられることが非常に多いです。「えっ!?」って思うような内容でも、先生のあまりの自信に、ときどき私の感覚方が間違ってるのか、マイノリティなのか、と不安に思うことさえある。いつも、先生と二人で確かめられる場があまりないのでこういうことがしゅっちゅうです。


環境問題を強く主張している人に対しての先生の言葉。

  • 「環境のこと、そのせいで私はすごい被害を被った。結局その人たちは環境保護が趣味みたいになってるのよ。環境環境って言ってるけど環境の為になってるなんて思えないわ。食品のふたのセロファンやプラスティック容器を、洗剤で洗って水を大量に使って分別するなんて、あれってすごい水の無駄じゃないの。」(これは私も思います^^;)
  • 「○○学園の親戚がいるの。あなたと同い年よ。私はこの子といるとすっごく疲れるの。病人のいる部屋で温度を23度にしなきゃいけないのに、次から次へとエアコンを消しまくる、使わない部屋は電気を消しまくられるけど私は明るいのが好きだから後ろからついてまっわって電気を付けて歩くいたちごっこになる。半額とか値引きの賞味期限が近い食べ物は私は絶対いやなのに、そういうものを買ってくる。そして、定価で買ってくるとすごく怒る。」
  • 「母が『ドクダミがいい』とドクダミを部屋に干してたらそのことを忘れて乾燥してバリバリになって散らばってしまった。部屋中掃除しなきゃいけないハメになったのは私よ。お味噌汁の貝殻は庭へ、茶殻はどこどこへ、と環境を考えるとやる工程が多くなるから結局できなくなるのよね。それで面倒くさくなるのか忘れるのか、母はやらなくて後始末をするのはいつも私、・・・・。私、もう、イヤ!!ってなるの。本当に疲れるわ。そういう経験があるから私があなたが言ってる環境のことに反発するのも分かるでしょ?」

先生は極端で特殊な例ばかり出すけど、上の例みたいな、そんなのがおかしいなんて私だって思うよ。私はできる範囲でしか要求しないよ。でも、それが例え全然苦にならない範囲でも、先生は過去のトラウマのせいで過剰に拒否反応をしてしまうんですよね。一種のアレルギーになってるよね。

  • ある日、先生が6時間とか会議で部屋に帰ってこないのを分かってるから、その間だけ電気とエアコンを消した。私がそんなことをしたのを知られるとまた逆鱗に触れるので、会議が終わる30分くらい前にまた電気を付けておいた。…ところが先生にそのことに気づかれてしまっていた。「私はいつも部屋を快適な状態にしておきたいの。勝手に消さないで頂戴!貴方消したの知ってるのよ。一度忘れもの取りに帰ってきたんだもの。」
  • 塗り箸がたくさんあるので、学校での数人の食事(自炊)の時配った。ここにある割り箸は、全て皆伐材である。中国の洪水事件を思ってもとても胸が痛む。先生曰く、「塗り橋はつるつるして使いにくいから割り箸がいいわ。他の人もそうだからみんなの箸を割り箸に変えて頂戴」
  • よく、学校の水道がものすごい勢いで出しっぱなしになっていて、ぎょっとする。というのも、先生は朝学校に来たら、自分の使ういくつかの部屋の水道の水を時には一時間から二時間、流すのが習慣だからだ。曰く「なんとなく、最初の水は汚い感じがするのよね。」
  • 参考文献のコピーは、「使用」「保存用」「切り貼り用」「予備」「予備2」の5部必要。最低でも4部しないと許されない。納得できないでいると、厳重注意と説得が、延々と続く。深夜にまで及ぶことも珍しくない。しかも、間違いを冒したその日に限らず、後日繰り返して長期的にお叱りと説得が続く。「長年やってきたことなんだからいちいち反発しないで黙って聞いてればいいのよ。何も分かってないんだから」後期に使う学生用の感想用紙を作ったが、そのコピーを、600部、必要量の倍、頼まれた。「余分にあると思うと安心するから」「もしかして○○先生が使うかもしれないから」
  • メモ用紙に、ミスコピーなどの裏紙は絶対に使わない。「なんかみすぼらしい感じがしていやなのよ」再生紙は嫌い。それどころか厚紙を使う。しっかりしていていいらしい。

う、うん、そうだね、みんなそう思うよね、だけどさ・・・・。

  • 「ドイツや北欧では(長期間住んでいた)、野外でヒーターをいくつもがんがんに使って空気を暖めているのは当たり前よ。」


でもね、私が地球のことを想うと、その色々な行動に対して、すごく胸が痛くて涙が出てくるほど辛くなってしまうことは、考慮してもらえないの?

環境破壊の行動が時々見せ付けのように私の前で行なったり、さも嬉しそうにそういうことを見たことを語るのを、私がどんな思いで見ていると思っているんだろう。聞いている間どんな思いをしていると思っているんだろう。


人を挑発させるようなことを次から次に言って、そして人がむきになるのを喜んでいるような感じがする。(実際数年前に「そうよ楽しいわ」なんて自分でも仰ってらした)
「主義というものを持つ人は、ある考えに偏りすぎているのがよくない。公平な目で物事を見ることができないからだめである。」
「画家は自分の絵画論をめったに書くことがない。かけないからだ。私はこれだけ書いているがこれだけ書ける人はいない。私を認めている人は素晴らしい人ばかりで(著名な人の評の例を挙げて「この人もよ」)、そうじゃない人はついていけてないだけ。○○先生は私の絵をよくないなんて言ってるけど、あの先生は最近の芸大の絵はよくないって言ってるわ。新しい感覚についていけてない証拠よ。」「こんな経歴で、こんなすごい人に従事して、こんな経験をして、・・・・・」
あんまりにも繰り返し自画を自賛されるのと、聞いていてとても疲れてしまいます。

「相手の気持ちも考えて」って、私そこまで自己犠牲をしなければいけないんでしょうか。
先生に対しては意見をもつことは許されないんでしょうか。

●罪悪感と自分愛護、自分で自分を納得するということ

asakoo2004-08-27

このことについては書き出すとキリがなくなってしまうのだけど・・・
なんか、自分の中は、一生すっきりしないんじゃないかって気がします。…悲しいけれど…。

私は、欲のままに環境破壊する人間が嫌い。人間である自分もまた嫌い。
環境保護を呼びかける活動をしていた、これからもしたい、と思うものの
そういうふうに、自分で自分を納得していないのだから、 人にも説得できないのかもしれません。自己愛護ができなければ、きっと人に納得してもらうこともできない。

でも
自己愛護は、私の理想が叶えられないと実現しないと思うのです。。。

私の理想というのは、まず、環境への負荷を最低限にした暮らしです。
趣味など、贅沢なものは一切捨て、質素で清貧な暮らしがしたい。または財産を全て環境保護や寄付など慈善事業に充て、自分自身も体をはって積極的に活動したい。

それができれば私は「偽善」という言葉から逃れられると思います。でも逆にそれができれないうちは、やっていることはささいなことに過ぎず、他人になにか言うこともおこがましくてなかなかできません。

強い意志があれば可能なことなのかもしれません。でも、言い分けになるかもしれないけど現代の先進国に生まれてしまった私にはどうしても踏み込めないのです。楽しいこともしたい、甘いものも食べたい、かわいい洋服も欲しい、それに寄付どころか、資産運用なんてしだす始末…

それらをしている人が悪いというのではありません。(いや、本心では悪いって思ってるのかもしれない)
ただ、先に述べたような「環境負荷の最低限の暮らし」などという「理想」を持っている限りは、いけないことだという気がして、自己嫌悪に陥らずにはいられません。でも、これじゃいけない、でも今の暮らしも捨てられない、…その葛藤が苦しいです。

今の私は、自分の快適な暮らしは保ちつつ、その上で環境のためにできることはできる限りはする、というくらいです。肉は食べないとか、クーラー使わないとか洋服のリサイクルとか… あくまでも、基本的な自分の快適さは捨てられず(つまり自分中心がまずあって)、その上で、ちまちまとしたことしかでいない、といったところです。

私のように、今の暮らしを捨てずして、それよりも上の理想を持っているなら、それは偽善と言うのではないでしょうか。。。?

理想は高くあるけれど、それができないうちは悩みや罪悪感は消えません。そういう、自己嫌悪があるわけですから当然、自己愛護もできません。
では、強い意志を持って理想は叶えられるかというと、それもできません。
となるると私は、一生、自分のことが好きになれません。

「好きなことや楽しいことばかりを追いかける愚か者」と
私を攻めるのは、私自身です。(;;)


悩みはふたつあって
これは私自身の内面に関する悩みでした。

もうひとつはそのことにまつわる対人関係における悩みです。

●このごろの悩み

悩みにゃじ

このごろの悩み


私は環境問題や、動物愛護のことがとても気になっているのですが
私のこのところの目下の悩みはそのあたりです。

(…なんてことを言うと自分の研究はどうした〜って感じですが…正直なところを言わせてもらえば、私は大学で研究していることよりもこちらのことの方に関心があります。)

よく思うのだけど、自分は偽善者なんだろうか…?、ということ。

そう言われるのが、怖いのです。
言われたくないが為に、自分を偽ってわざと心にもない事を言ったりしてしまいます。
今でこそ過剰に控えめになってしまいましたが、それまでは、たいしたことではないのですが、環境保護を呼びかける活動を積極的にしていました。また復帰したいとは考えていますけれど。。。

そういうわけであまり人には話せないでいたのですが、
先日、ある人(大学の友達)と真面目に話していて、
私の言うことは所詮きれいごとである、自己満足なだけであると、批判されることがありました。

熱くなっている人(私のように)は、その他のことに目を向けられないで一義的にしか考えられない子供だとも言われました。私の提案・呼びかけは、相手のことを思い遣ってない、全く自分勝手な押し付けだと。そういうのは自己満足なんだから、自分の中だけで思ってるに留めなさい、人に強く言ったりするのはだめ、人に対する思いやりや配慮が足りないよ、と。

人はそれぞれ、生きてきた過程が全く違うから、周りが同じ気持ちになることはありえません。ぎりぎりで生きてきた人もいるし、裕福に育った人もいます。みんな違う、そのことは分かっています。ですが、みんな同じ地球に生きているのにそれに対する罪の意識にはこれほどまでに差があるものなんでしょうか。

また私もあまりえらそうなこと言えるような人間でもなく、私のしているダイビングも、極力気を遣っているつもりではいても地球に悪い影響を与えていることは事実ですし、そもそも生きるためだけの最低限のもので暮らせればいいと思ってもそうする勇気もなく、趣味のものにお金を使ったり甘いものも大好きで無駄に食べてしまったりもしています。それなのに、日常の中の節々で、動物が、地球が、かわいそうと感じ辛く思っている自分は偽善者なのかとも思います。激しい悲しみの感情に異常なのかと思えてくることもあります。

自己満足だと言うことは、私の行いは、私の為にしかなっておらず、全く動物や自然の為にはなっていなかったのでしょうか。そう考えるととても辛く、やりきれない思いでいっぱいになります。

そして、自分の中だけに留めるのって、一人で悩み続けることと同じですよね。
それってとっても辛いです。

あぁ、かわいそう…って思って、感情が昂ぶってしまって、ほんとは泣きたくなんてないのに、不本意にも涙が出てきてしまうことも、なんとかして我慢しなきゃいけないのでしょうか。 そして、それを不覚にも人に見られたときは、どうやって言い訳すればいいのでしょうか。